電波研クラブ/ミュージシャン北村英治氏が平磯訪問

 国立研究開発法人情報通信研究機構(NICT)等に勤務するアマチュア無線家のサークル「電波研クラブ」(JF3CGN滝澤修代表)は、NICT平磯太陽観測施設100周年記念局8N100ICT、無線通信研究120周年記念局8N120ICT、逓信省電気試験所125周年記念局8J125ETL、逓信省電気通信研究所(通研)70周年記念局8J1ECLを、2014年から相次いで開局し、無線通信の歴史を振り返り広く紹介するアマチュア無線活動を続けている。滝澤修代表によると、NICT平磯太陽観測施設(茨城県ひたちなか市)の歴史に関連して、4月13日にクラリネットの奏者として著名なミュージシャン北村英治氏(89歳)が、同施設を見納め訪問した。 北村英治氏の父親である北村政治郎(若い頃は政次郎)は、世界初の実用無線電話「TYK式無線電話機」の開発者の一人であり(TYKのKは北村のイニシャル)、NICT平磯の前身である逓信省電気試験所平磯出張所(1915年開設)の初代所長を務めた。平磯に在任中は、花火式送信機と鉱石検波器を使用するTYK機を、真空管式にグレードアップする改良に取組んだ。電気試験所を退職後は、NHKの前身である日本最初のラジオ放送局JOAKに初代技師長として迎えられ、短期間の突貫工事を指揮し、当初予定から3週間遅れの1925年3月22日(後の放送記念日)に仮放送開始を実現した。 平磯出張所はその後、当時のアマチュア無線家が開拓した短波帯の研究に取組み、わが国における電離層観測、さらには電波物理学の研究拠点として発展していく。その成果を宇宙活動時代に適用した宇宙天気予報は、平磯における国家プロジェクトとしてスタートし、アマ無線家らに活用されている。宇宙天気予報センターは2002年にNICT本部(東京都小金井市)に移転し、太陽観測業務も2014年に鹿児島県に移転したことから、NICT平磯はその役目を終え、2016年をもって102年の歴史を閉じた。間もなく施設の撤去工事が始まるのを前に、北村政治郎初代所長の子息9人兄弟でただ一人健在の北村英治氏に、滝澤代表が訪問を誘った結果、このたび初めて実現したものである。 4月13日、英治氏は女性マネージャを伴って自らの運転で平磯に到着し、出迎えた滝澤代表らと歓談した。英治氏は政治郎一家が東京に転居した後の生まれだが、早世した一番上の姉が平磯の小学校に歌いながら通学していたことや、東京に移転後も平磯から同行した書生や「ねえや」に子供時代に世話になったことなど、家族から聞いていた平磯ゆかりの生活を、敷地内を散策しながら語った。英治氏が4歳のときに亡くなった政治郎のことは、転地療養に同行して一緒に暮らしたことなどを鮮明に覚えていると語り、また亡くなって間もなく、JOAKが愛宕山に政治郎の鏡像を建立し、幼い英治氏が除幕を受け持った時には大変緊張したというエピソードも語った。 NICT平磯の所長室に掲げられていた北村初代所長の肖像写真を前に、英治氏は突然クラリネットを取り出し、演奏を披露するというサプライズがあった。兄弟が全員理系の仕事に就いたのに、末っ子の自分だけが好き勝手な道に進んで、兄弟の命を貰って長生きしていると謙遜していた。政治郎が欧州視察中に生まれた英治氏は、「英国」の英と「政治郎」の治から命名され、氏が英国でのコンサートにおいて、父親がラジオエンジニアであり自分の名は英国から採られたことを紹介すると、聴衆から大いに受けるとのこと。英治氏は、父親が眠る多摩墓地に捧げるために、創立当時の本館が建っていた辺りに生えていた植物を採集し、1時間半にわたる平磯訪問を終えて帰途に就いた。 滝澤代表は、「NICT平磯の敷地は間もなく国に返納される予定だが、1世紀以上前の創立に縁のある著名なお方に締めくくりとしてお越しいただいたことは大変有意義なことである。無線電話と宇宙天気予報の故郷であるNICT平磯は、その姿を消しても末永く記憶されて欲しい」と話した。