「放送法制定に向けた動き②」
放送民主化の夜明け(昭和21年) CCS(民間通信局)ファイスナーの来訪(GHQの示唆)により逓信省は色めき立った。 網島電波局長や逓信省の中堅幹部の間で、かねてから考えていた「無線電信法」再検討の考えに火が点いた。 彼らは戦前戦中から、あまりにも電波法令が前近代的なものであったかを知っていたが、大戦のぼっ発等によって、改正のチャンスにめぐまれなかったのである(前記・荘宏氏談)。 いずれにしても逓信省は、鈴木恭一次官を長とする「臨時法令審議委員会」を十一月一日発足させ、委員に各局長、幹事、主査に関係課長、同補佐等を発令し、旧法の不備欠陥の抉出整備に当たったが、やがて、そのような作業を行うよりは、むしろまったく想を新たにした新法律を作るべきではないかという考え方にむかった。 と同時に、司令部(GHQ)の意向が奈辺(どこ)にあるかを知ることも先決であった。 そんな折りも折り、GHQは、元国際電気通信株式会社(国際電信電話株式会社の前身)の労務課長をしていた鳥居博(とりい・ひろし)氏を推薦のかたちで逓信省に送り込んできた。 このため同省は鳥居氏を法令審議委員会の二代目の主査に発令し、CCSとの連絡調整に当たらせた。 語学に堪能であった鳥居氏は、まさに我が世を得たりという毎日であった。 各社の記者連中は好餌とばかり鳥居氏にとり付いた。その結果、逓信省で作業中であった法律案の試案がしばしば新聞に報道されるという事件が発生。法案作業が一頓座したことがあった。 インタビューを受けた時、鳥居氏は「これはオフレコとしての話です」と確かに言ったのを私も覚えているが、戦後の記者連中はスクープのみに走り、信義を守らなかったのである。 この問題を少し紹介すると、最初に放送の民主化案として登場したのが「日本放送協会法案」なるものであった。 この草案は、最初は「日本放送公団」と名付けられたもので、政府出資による事業官庁的色彩の強い公益法人を新たに設立するというものだった。 もっともここに到達する前の二十一年十一月十二日、逓信大臣一松定吉は、記者会見の席上、さきの放送ストをきびしく批判したうえ「放送ストを契機に、従来の放送局(NHK)のほかに民間放送会社の新設が考慮されるような局面を迎えた。 これが許容されれば東京、大阪のような大都市を中心に、新しい放送会社の実現をみることになるかもしれない」と、いかにも民放設立が、時間の問題であるかの如く発言した。 このことが朝日新聞に大きく報道され話題となった。しかし、この発言はニケ月もたたないうちに立ち消えとなった。「対日理事会」が民放設立を否定したからである。 (第21回に続く)