「NHKで放送ストぼっ発①」
第1部 放送民主化の夜明け(昭和21年) 昭和二十一年十月、驚天動地といっては大げさだが、思いもよらぬ大事件がNHKを襲った。「放送スト」のぼっ発と「放送の国家管理」である。 「産別会議」を作り、その中でも主要な地位を占めていた「日本新聞通信放送労働組合」の傘下にあった日本放送協会支部従業員組合は、上部の指令と称して昭和二十一年十月五日からわが国放送史上初のストライキに入り、これが二十日間にわたって続けられることになる。 私は、このストの解決をみるまでの三週間、放送会館に起居した。誰から頼まれたわけではないが「放送は国民のもの」であり、紛争ぼっ発から解決までの状況の一部始終を読者国民に周知することが任務と考えたからであった。 会館五階の食堂脇に与えられた三坪(九・九平方メートル)の部屋で、ほとんど睡眠時間もとれぬ毎日であった。 十月五日午前七時十分「これから放送ゼネストに入ります」のアナウンスを最後に、大正十四年三月二十二日から二十有余年にわたり一刻も休むことのなかったラジオ放送が、完全に停止してしまったのである。 私にはこうなるであろうという予測はついていた。それは読売新聞社と北海道新聞社の編集局長ら幹部の首切りに端を発した「新聞単一」労組の、いわば支援ストであった。 ただ私には、どう考えても納得がいかなかったのは、当時あれほど新聞を目の敵にしていたNHKが、一、二の新聞争議に同調して「国民の耳」を奪うような暴挙をなぜあえて犯したのか、という疑問である。 それはともかく、わが国の放送史上に特筆される「放送スト」は、昭和二十一年十月五日午前七時十分「只今から放送ゼネストに入ります」のアナウンスを最後に、それから三週間にわたって続けられた。 このストは後世のために記録しておく必要があると思うので、私なりに、その経緯と顚末を紹介しておきたいと思う。 連日連夜のごとく放送会館に出入りして多くの人達と接触していた私は、この年の夏ごろからNHKの労使間にただならぬ空気がただよいはじめたのを肌で感じていた。 たとえば最初は「職員組合」だったNHK労組の名称が、いつの間にか「日本新聞通信放送労働組合」日本放送協会支部に変わっていった。これを「新聞単一」という。 私の対労働組合観は前にも書いたように、「官公吏やジャーナリストは特別の思想(一方に偏した主義主張)に走るべきではない」という信念に変わりはなかったので、新聞単一の言動には初めから同調できなかった。 [caption id="attachment_11336" align="alignleft" width="300"] NHKは当面する労働問題をテーマに「街頭録音」を行った[/caption]