実録・戦後放送史 第1回
「通信記者の第一歩を NHKから」
第1部 放送民主化の夜明け(昭和20年)
私の通信記者としての第一歩は、当時(昭和二十年)の逓信院と放送局(NHK)通いから始まったが、まったくの素人(しろうと)として役人に接することには抵抗する気持ちもあって、まずNHK通いをすることに決めた。
まだその時は「通信文化新報」の発行までニカ月以上の時間があったので、それまでの間に、まずこのことを身につけることに専念したわけである。
さいわい当時のNHKの人達は初対面の私を快く迎えてくれ、まったくの初歩から何くれとなく厚遇して下さった。
このことが私をして電波界を安住の地とし、また生涯をこの世界のために没頭させる原因となったことはいうまでもない。
それからの毎日は、午前中は狸穴(まみあな)に、午後は内幸町の放送会館通いという生活が二十年以上続いたことになる。
そのころのNHKは終戦直後のこともあり、また会館の大半を占領国軍に接収されたことなどもあって混乱を極めていた。
そのころのNHKにはまだ大橋八郎氏を会長に、常務理事には矢部謙次郎、荒川大太郎ら首脳陣が執務していたが、はやくも協会民主化の嵐の中に立たされ「部課長会」や職員組合から板挟みになり苦悩していた時代である。
部課長会や職員組合の要求は「民主化」の名のもとに、まず逓信族の追放、つまり天下り人事といわれた逓信省から横すべりした理事監事等の総退陣を求める決議であった。十月十六日のことである。
やがて十月二十一日にいたり、一部の部課長は一般職員と合体した「日本放送協会職員組合」が結成されるなど、NHK内部は大揺れにゆれ、まともな仕事は手につかぬ有様だった。
こうした中で、矢部常務理事から、池田幸雄秘書課長を紹介された。
和歌山弁丸出しの池田さんは、多忙な中を、何くれとなく世話を焼いてくれ、「座るところがないと困るから」と、秘書課の一隅に机や椅子まで用意してくれたうえ、「これからは、あなたの案内役として木村正勝君を付けてあげるからNHKを正しく紹介(報道)して下さいネ」といわれた。こうして堀国雄、栗原繁造氏らの隣席に座ることとなった。
池田さんという人は、稀に見る人物であり、実に先見の明のある人で、この人とのお付き合は四十年以上、氏の逝去まで続くことになる。(第2回に続く)
(編者注・この時代のNHKは、放送法に基づく今のNHKの前身の「社団法人日本放送協会」のこと)
阿川 秀雄
阿川 秀雄
1917年(大正6年)~2005年(平成17年)
昭和11年早稲田大学中退、同年3月、時事新報社入社、以後、中国新聞社、毎日新聞社等を経て通信文化新報編集局次長。昭和25年5月電波タイムス社創立。
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