実録・戦後放送史- 電波取材に生涯を捧げた 記者・阿川秀雄の記録 -


実録・戦後放送史 第2回

「GHQによる放送民主化」

第1部 放送民主化の夜明け(昭和20年)

その頃の時事問題というか、大きな出来ごとをあげると、GHQが民間情報教育局(CIE)を放送会館内に設け、アメリカ式放送編成方式の指導にあたっていた。

一方、政府に対しては「無線通信の統制」排除に関するメモランダム(覚書)を手交して、放送を含む全ての周波数の割当や出力の変更等は、いっさいGHQへの登録許可を要するなどと規定した。

また、それまでわれわれを苦しめ抜いた言論の自由に対する諸制度の撤廃と内務省「特高警察」の廃止、自由と民主主義を骨子とする憲法改革草案をつくること、軍国日本の解体などの五原則が示された。

しかし、建て前と本音は別で、新たな検閲制度が別に設けられたりした。また放送番組の面ではGHQ主導による「婦人の時間」が創設され、江上フジさんが初代プロデューサーとなり、婦人の地位向上のためのPRにつとめたほか、国民(家庭)に娯楽を与える企画として「希望音楽会」などがお目見得し、並木路子の「りんごの唄」が一世を風摩したのも十二月十日の放送からであった。

民間情報教育局(CIE)の設置の目的は日本そのもの(日本人の心)を改革することであったといって差しつかえなかろう。しかも彼らのやり方はまことに性急であった。

八月二十八日本土上陸、そして九月二日ミズーリー艦上における降伏文書調印式が終わると間もなく、連合国軍総司令部(GHQ)はK・R・ダイク大佐(後の准将)をCIEの局長に、また次長級にインボーデン中佐を任命して、放送会館の大半を接収した。

当時のNHK東京放送会館は地下二階、地上六階であったが、このうち二、四、六階は完全に接収され、職員は狭い三、五階(一階はスタジオ群)に押し込められ身動きもできぬ状態で、一部は筋向かいの「飛行館」や霞が関分館に分散住まいをしなければならなかった。

そうした中で最初に発動されたのが「放送の民主化」と「言論の自由」に関する諸施策であった。それらの中で特に力を入れたのが、なんと労働組合結成の促進であった。

阿川 秀雄

阿川 秀雄

1917年(大正6年)~2005年(平成17年)

昭和11年早稲田大学中退、同年3月、時事新報社入社、以後、中国新聞社、毎日新聞社等を経て通信文化新報編集局次長。昭和25年5月電波タイムス社創立。

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