実録・戦後放送史- 電波取材に生涯を捧げた 記者・阿川秀雄の記録 -


実録・戦後放送史 第3回

「労働組合の結成」

第1部 放送民主化の夜明け(昭和20年)

放送会館に日参するようになって、まず感じたことは、会館内の空気にただならぬものがあった。

まず耳にしたのは一般の組合だけでなく「部課長会」の結成であった。部課長会の最初の仕事?は「逓信系理事の総退陣」「監督諸法令の撤廃」「協会経営の民主化」等の要求であった。それまでのNHK幹部の多くは逓信省出のいわゆる天下り人事で占められていたが、これに対する反発が火を吹いたのであった。

それはそれとして奇異な感じがしたのは一部の部課長と一般職員とが一緒になっての組合結成(二十年十一月)であった。これによって職員と上層部との間に心の垣根ができてしまった。間もなく労働組合と部課長は袂を分けることになるのだが、戦後の混乱の中に起きた一つの現象である。

「経営者は労働者の敵だ」と組合はいう。そのうちに女子職員までが、上司のいうことをきかなくなった。仕事の関係から局長や上層部を中心に回っている私に対してまで「あなたは経営者側ね」と言うにいたっては、ばかばかしくて話にならなかった。

私は組合問題にかかわり合いを持つのを避けて、多くの国民に、心のゆとりというか生活の中に潤いを持ってもらいたい、の一心で、ほとんど毎日、演芸部や音楽部に出入りして記事を書いた。今日でいう芸能記者だった。

そして知り合ったのが音楽部長の吉田信さん、ガンちゃんこと丸山鉄雄副部長、三枝嘉雄(健剛)さんらであった。

これらの人とは新橋のカストリ横丁などでよく飲み、かつ、論じあったものである。そんな折りに私は「もっと歌番組を多くして、それもロートルになった歌手よりも、若いシロウト臭い歌手に歌わせたほうが面白いし、人気が出る、NHKへの親しみも増すだろう」と提案してみた。

私の提案を受けたわけではないと思うが、間もなく三枝氏は「飛び入り素人のど自慢音楽会」を考えたが、最初の企画は通らなかった。CIE(米民間情報教育局)が最初はOKしなかったといわれる。

そこで三枝氏は案を練り直し、昭和二十一年の新春を迎えた。新春早々、三枝氏に会うと、正に喜色満面であった。「のど自慢素人音楽会」の企画が採用されたという。

「ただねェ、自由に唄わせるだけでは面白くないから、審査員を付けて合格不合格と、審査の雰囲気を出そうと思うんですよ。そうなると審査員を決めなければいけないが、歌曲とか歌謡曲ならまだしも、俗曲とか民謡となると適当な人がいない。外の人に頼むには予算もないので、あなた一つ相談に乗ってくれませんか」

瓢箪から駒というか、言い出しっ屁の私に、お鉢が回ってきた。すったもんだのすえ引き受けざるを得ない破目になってしまった。

次は何日から始めようかという話になった。そこで私はとっさの思いつきだったが、「一月十七日はどうですか、金色夜叉にあやかるのもオツなものじゃないの」といったら、みんな賛成してくれた。

阿川 秀雄

阿川 秀雄

1917年(大正6年)~2005年(平成17年)

昭和11年早稲田大学中退、同年3月、時事新報社入社、以後、中国新聞社、毎日新聞社等を経て通信文化新報編集局次長。昭和25年5月電波タイムス社創立。

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