実録・戦後放送史- 電波取材に生涯を捧げた 記者・阿川秀雄の記録 -


実録・戦後放送史 第4回

「のど自慢の始まり」

第1部 放送民主化の夜明け(昭和20年)

一部の記録では一月十九日となっているが、実際の第一回審査は一月十七日に行われた。
事前の「告知放送」が効いたのか、二百人もの老若男女が集まって、放送会館の第ニスタジオ前には長い列が出来た。
われわれ(私も含めて)審査員は副調整室からガラス越しに素人歌手の歌に笑いを噛み殺したり、また渋面をつくったりして「合格」の場合は親指と人差し指で丸を、「不合格者」には、指でバッテンをする。スタジオ内の大田一郎アナが、それを受けて「ご苦労さんでした」などとやる。実になごやかな風景だった。
これが本放送として全国にながされたのが一月十九日のことで、それからは毎日曜日に放送された。
人気上昇とともに、やがては地方都市でも行われるようになり、あげくは全国一を決める一大イベントとなった。そうした中から綱島温泉で流しをしていた三橋美智也などが育っていった。美空ひばりも子供のころ参加したが、そこは、お堅いNHKのこと「子供が大人の歌を唄うのは…」と鐘一つ。そんなエピソードなども思い出の一つである。
こうしたのど自慢人気は、全国のあらゆる職場に普及し、さっそく逓信省と全逓信労働組合が目をつけた。職場の融和と組合団結には好材料であったからだ。
昭和二十二年と三年には、逓信省職員だけの全国大会が狸穴の庁舎で盛大に開かれ、私もその審査員に招かれた記憶がある。

さて先に少しふれたが、CIE(民間情報教育局)局長ダイク大佐は、放送会館に乗り込むとすぐさま「これから、すべての日本の放送活動はCIEの指揮下に置く。ただし放送の運行は現在の日本人(NHK)スタッフによって継続する」と、基本方針を明らかにすると同時に、戦後日本の放送、新聞、出版、映画、演劇、教育、宗教にいたるまで、およそ日本人の心のよりどころともいえる事業を完全に把握した。
そして放送については「ラジオ課」が設けられた。いずれにしても昭和二十年という年は、日本の放送にとって、それまで二十年にわたって築いてきた伝統が一挙に崩れ去った、いわゆる歴史が書き替えられた年である。そればかりか我が国の放送事業そのものが、GHQという存在によって根底から変貌させられたのである。
彼らの目的は、日本(の国体)そのものを改革しようとするものであったから、まず日本人の頭の切り換え(洗脳)であった。
彼らは、いうところの軍国主義の払拭を手始めに、欧米流の民主主義を育てるためには、それまでは非合法とされていた共産主義や社会主義思想の導入をもいとわなかったのである。
このことは多くの史実が証明しているが、これら政治的、思想的な問題を記すのは、本稿の主旨ではない。
まず、放送会館に乗り込んできたCIE等の「政策」について触れてみよう。

阿川 秀雄

阿川 秀雄

1917年(大正6年)~2005年(平成17年)

昭和11年早稲田大学中退、同年3月、時事新報社入社、以後、中国新聞社、毎日新聞社等を経て通信文化新報編集局次長。昭和25年5月電波タイムス社創立。

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