実録・戦後放送史- 電波取材に生涯を捧げた 記者・阿川秀雄の記録 -


実録・戦後放送史 第6回

「NHK改革①高野岩三郎会長就任」

第1部 放送民主化の夜明け(昭和21年)

昭和二十一年一月二十二日発足した放送委員会は、その当日、CIE(米民間情報教育局)ダイク大佐、CCS(民間通信局)ウィットモア氏らを中心に、政府からは逓信院松前総裁、新谷寅三郎次長ら出席のもとに、①NHKの新しい会長候補者三名の選出②同協会の再編組織案の作成③放送基本方針の決定を申し合わせた。

かくして同委員会は、翌二十三日に総会を開いて、会長候補者に高野岩三郎(大原社会問題研究所長)小倉金之助(元阪大理学部教授)田島道治(大日本育英会会長)の三氏を選んでGHQに提出した。

会長候補三名についてGHQは、三氏の身上調査や情報収集などに時間をかけた。また委員会としても、個々に三氏と会い折衝を進めるなどして、ひとまず小倉金之助氏を推せん(三月十二日)したのであるが、小倉氏は「健康が勝れないので日本放送協会の会長の任に堪えない」と、就任を断った。

やむなく同委員会は、三月二十八日にいたり第五回目の総会を開いて、かねてから会長就任に意欲を示していた高野岩三郎氏を会長候補に推すことを決め、松前逓信院総裁を経由してGHQに報告した。GHQ側は、はじめから高野氏と踏んでいたようで、ここにはじめて民間の推せんする会長が誕生することになった。

 

その高野氏が五代目の会長予定者として放送会館に正式に歩を運んだのは昭和二十一年四月二十六日のことである。

この日の模様は今でも私の脳裏にハッキリと焼き付いているが、この日の高野氏のいでたちは、よれよれの黒っぽい背広、薄汚れたワイシャツの襟は洗いざらしのままで、ネクタイも柄がわからないような古くさいものだった。ドイツ人を夫人に持った人としては、尾羽打ち枯らしたというか、あまりにも質素、むしろ生活の疲れさえ感じさせるものがあった。しかも足元もおぼつかない。

「これで激動するNHKの会長が務まるのだろうか」。率直にいって私は期待はずれの人を見るような気がしてならなかった。

その日私は、当時の放送会館五階の会長室で高野氏と初の単独会見に成功した。

庶務部長の橋本芳蔵氏と秘書の銭村さんの特別なはからいによって実現したものであるが、この日はどうしたことか、一人の記者も見えなかったのも僥倖だった。

私は、高野新会長に一応の祝意と敬意を表したあと、単刀直入に「あなたがNHK入りして、まず手をつけなければならないのは、役員人事だと思いますが、何か腹案は?」と聞いてみた。

すると高野さんは全く意想外に、しかも、あらかじめ用意していたかのように、実にアッサリと最高人事とその顔ぶれについて話されたのには、こちらが二度ビックリさせられたのであった。

話しぶりはたどたどしいものがあったが、人名については実にはっきり答えられた。今思えば、その時すでにお膳立ては出来上がっていたのである。

 

阿川 秀雄

阿川 秀雄

1917年(大正6年)~2005年(平成17年)

昭和11年早稲田大学中退、同年3月、時事新報社入社、以後、中国新聞社、毎日新聞社等を経て通信文化新報編集局次長。昭和25年5月電波タイムス社創立。

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