実録・戦後放送史 第9回
「NHK改革④古垣専務理事」
第1部 放送民主化の夜明け(昭和21年)
専務理事の古垣繊郎さんは、私の気持ちなど委細構わず「実は近く全面的に職制を変更し、国内局を編成局に、また事業局と放送文化研究所を新設する。
また放送記者制度をつくって報道部を独立させたい。これらポストの責任者を誰にしたらよいか、あなたの意見を参考にしたい」とまで言われるのであった(注・これらの組織人事は昭和二十一年六月十七日実施された。また、この日NHK技術研究所はテレビジョンの研究を再開した)。
前述したように古垣織郎氏という人は、就任二、三カ月後には、すでに実質的会長になりきっていた。
ということは高野会長が既に八十歳近い高齢であり、戦後のきびしい社会情勢に対処しながらの激務に対応することは、誰の目からみても到底困難とみられていた。そのうえ股肱とたのんだ権田保之助氏はじめ鷲尾弘準、桜井愛治氏らは、担当業務遂行が精いっぱいであって、激しく揺れ動くNHK全体を掌握し、難破しかかっている経営の舵取りをまかせるには、少なからず無理と感じていたようだ。
したがって当初渉外専務程度と考えていた古垣氏の実力を認めざるを得なかった。と同時に協会生え抜きの理事・小松繁氏(技術局長)の重用も併せて進められていた。
小松さんの担当は技術であっても、長い経験と真撃(しんし)さは、万人の認めるところであった。このような状況下にあれば古垣、小松両氏が乃公(だいこう)出でずんばの心境に立つのは当然であった。
だからといって古垣さんにしてみれば、事務的なこと以外に小松さんに相談することは憚(はば)かられたようだ。
畢党(ひっきょう)私のところにお鉢が回ってきた。「逓信省の動きはどうか、民間放送にまつわる動勢は?」といった質間も時々出されたりした。
そのころのこととして、もう一つ古垣さんにとって重大な関心は労組問題だった。この年(昭和二十一年)は全国的に労働組合が結成され、罷業(ストライキ)が相次ぎ、NHKも例外ではなかった。労務問題は庶務部の所管だったが、その部門を担当していたのが社会党の左派から推せんされた佐田忠隆庶務部長であった。
「組合の動きについての情報が入らなくてね」と古垣さんから言われたことがある。しかし、労働問題については「深入りしない」というのが私の信条であった。
すなわち、国民の公僕たる公務員や、これに準ずる公共事業に携わる人、また報道機関とくに新聞社(記者)とか全国民に至大な影響力を持つ事業にある者は、特定の政党を支持したり、主義主張を持ったりすると、「不偏不党、公正中立の立場を堅持することはできない」というのが私の持論である。
とくに記者が特別な思想信教等に溺れるときは、筆を誤ると自らを戒しめていた。この旨を古垣さんに伝えると、二度と古垣さんは組合問題を口にされなかった。
阿川 秀雄
阿川 秀雄
1917年(大正6年)~2005年(平成17年)
昭和11年早稲田大学中退、同年3月、時事新報社入社、以後、中国新聞社、毎日新聞社等を経て通信文化新報編集局次長。昭和25年5月電波タイムス社創立。
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