実録・戦後放送史 第11回
「NHKで放送ストぼっ発②」
第1部 放送民主化の夜明け(昭和21年)
NHKにおける放送ストの遠因というか動機は、賃上げとか、労働協約締結等の名目はあったものの、裏を返せば読売新聞や北海道新聞労組の支援ストだった。
読売新聞ストのそもそもの発端は、当時「同社の常務取締役編集局長であった鈴木東民が、自ら労組委員長となり、多くの労働運動を煽り、かつ反政府運動的記事を、私見を交えて新聞に掲載した」としてCIE(民間情報教育局)新聞課長インボーデン少佐が五月二十日「プレスコード違反」の警告を発した。これにより読売新聞社は六月十二日にいたり鈴木東民以下六名に退社を勧告した。これが読売争議である。
同じころ北海道新聞でも筆禍事件が発生した。私は直接道新の紙面を詳読した訳ではないが、巷間「北海道新聞は赤だ」という評判が流れていた。それを裏書きするように、札幌を訪れたCIEのインボーデン課長は道新本社で講演し、新聞の使命と「記事の公正確保」を強調した上で「道新の記事は共産党の機関紙にすぎないとの投書が(司令部にも)来ている」(放送五十年史=NHK編)と指摘したことから、同社は佐野四満美編集局長をはじめ、五十三人におよぶ退社、休職処分を行った。
これに対して「新聞単一労組」は、すぐさま支援に乗り出し、これが有史以来といわれる「新聞・放送ゼネスト」への始動となったのである。
しかも「新聞単一」は、このゼネスト指令を出す足固めというか、労働運動を強固にする目的で、日本共産党と連携して「産別会議」(全日本産業別労働組合会議)結成に指導的役割を果たし、国鉄、全逓、炭労、電産などの組合を傘下に収め、ほぼ日本の労働組合を掌握、政府や企業、使用者を反動とキメつけた。因みに、この産別会議の結成は二十一年八月十九日のことである。
産別会議結成に力を得た「新聞単一」は、九月十七日にいたり「各支部組合は、団体協約の即時締結、賃金の引上げ、読売・道新両新聞労組争議団の要求貫徹支援をめざしゼネスト準備に入れ」と傘下組合に指令すると共に、九月二十六日には闘争宣言を発し「十月五日を期して一斉にゼネストに入れ」と指令した。
放送会館の廊下には、この闘争宣言、スト指令のビラが大きく貼り出されたほか、組合員は第一スタジオに闘争本部を設け、闘争委員長に西島貢、副委員長に藤島克己氏を選出した。当時のNHK労組は中央執行委員長に大木貞一解説委員長が座り、中川、白神、伊達、沖田、松原氏らの闘士が、組合員の志気をあおっていた。
これに対し、NHKの理事者側は、組合(放送支部)からの前記三項目要求(申し入れ)に対し、十月一日、高野岩三郎会長名で、「従業員諸君に告げる」との告示を発し、「従業員諸君は放送のもつ公共的使命をよく自覚し、一般聴取者大衆に迷惑をおよぼすようなストの中止を求める」と呼びかける一方、三十日から十月四日深更にいたるまで、ほぼ連日徹宵して組合側との交渉にあたった。(第12回に続く)
阿川 秀雄
阿川 秀雄
1917年(大正6年)~2005年(平成17年)
昭和11年早稲田大学中退、同年3月、時事新報社入社、以後、中国新聞社、毎日新聞社等を経て通信文化新報編集局次長。昭和25年5月電波タイムス社創立。
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