実録・戦後放送史- 電波取材に生涯を捧げた 記者・阿川秀雄の記録 -


実録・戦後放送史 第13回

「NHKで放送ストぼっ発④」

放送民主化の夜明け(昭和21年)

いまさら何を言っても無駄だと思ったが、私は国民の一人として以前から放送ストに対して批判的であったのと、彼らの挑発的態度に腹(はら)をすえかね、当時の藤島闘争副委員長に対して、「藤島さん、あなたは自分の子供が殺せますか」。思わず、こんな言葉を口にした。

「なぜなら、あなた方は長い間苦労して今日のNHKを作りあげてきた。いわば生みの親ですね。その放送を停めるということは、親が自らの子供の首を締めるのと同じではないですか。あなた方には、それなりの主義主張があってのことでしょうが、耳を奪われた大衆の立場をどうお考えですか」

私は、自分自身が昂奮してしまっていることに気付いたが、「放送は国民のもの」という考えには勝てなかった。

「いままでの放送は、軍国主義と官僚の思うままに支配されてきたんです。そうした旧弊を打破して、新しい民主的な協会にすることが目的です」

と、藤島さんは、あらためてストの目的を語った。

「しかし、藤島さん、そのことと放送を停めることとは別ではないでしょうか。他の方法で事態の解決はできると思うんですがね」

いつか私の目からは涙さえ浮かんできた。今さら言ってみても仕方ないことと思ったが、退くに退かれぬ気持ちになって、質問というよりも抗議調でやり合ってしまった。すると、周りにいた「青年行動隊員」らが、口々に「くだらんことをいうな」とか「新聞記者は出ていけ」とわめき出した。

一瞬私は胸ポケットの鉛筆を逆手に握りしめた。そのとき、松原、白神闘争委員が助け舟を出してくれた。

「阿川さん、出ていったほうがいい」

「やるなら、やってもいいが、きょうは出ていく。しかし、藤島さん、こんなストは国民の誰一人も支持しませんよ」

ば声に似た組合員の怒号を背に第一スタジオを出た私は、なんともやり場のない気持ちに襲われていた。

十月五日、NHK労組がスト突入、放送停止という暴挙に対して政府は、同日臨時閣議を開いて対策を協議した。これをみても当時の内閣が、いかに放送ストによる国民への影響を重視したかが窺知できる一挿話である。

一松定吉(ひとつまつ・さだよし)逓信大臣は、事態の推移と顚末について詳細に報告。これに対して各閣僚から意見が続出した。要は、いかにしてストを中止させ、放送を常態に戻すかであったが、一片の通達や命令では尖鋭化した労組を納得させることはできない。

もしそうだとすれば、当面の措置としてNHKの施設そのものを国が接収して「国家の手」による放送の実施以外にない、という意見が大半を占めた。

(第14回に続く)

阿川 秀雄

阿川 秀雄

1917年(大正6年)~2005年(平成17年)

昭和11年早稲田大学中退、同年3月、時事新報社入社、以後、中国新聞社、毎日新聞社等を経て通信文化新報編集局次長。昭和25年5月電波タイムス社創立。

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