実録・戦後放送史- 電波取材に生涯を捧げた 記者・阿川秀雄の記録 -


実録・戦後放送史 第12回

「NHKで放送ストぼっ発③」

放送民主化の夜明け(昭和21年)

放送の監督官庁である逓信省も事態を重視し、「ストの中止と放送業務の遂行」を求める業務命令を再三にわたってNHKに発したりしたが、十月四日の徹宵団交も空しく遂に交渉は決裂した。

私も仕事がら、この放送ストの目的と性格がいかなるものであるか等の解説記事を書く一方、団交の推移を聴取者国民に逐一知らせるための取材活動に徹し、九月三十日以降は、ほとんど自宅に帰ることなく動き回った。

とくに十月四日は寝ずじまいであった。そして正確にいえば十月五日午前五時近く、いわゆる最後の団交が終わった。

会議室前に待機した私の前を、組合員や理事者たちが目を真っ赤にして疲れ切った表情で通り過ぎて行った。このころ高野会長は老齢のうえ健康にもすぐれず、会長室にベッドを持ち込むなどしていたが、団交にはほとんど出席せず、協会側は古垣専務、小松常務、佐田庶務部長らが主として交渉に当たっていた。

その朝、団交の部屋から最後に出てきたのは常任監事の松田寅雄さんだった。松田さんは背を丸め、ハンカチで目頭を押さえ、しばし窓外に目をやるなど、どうにも居たたまれないという風情であった。ふだんから柔和な松田さんに声をかけるのは辛かったが、「どうでした?団交の結果はー」と聞かざるを得なかった。

「駄目でした」松田さんは一言いうと、いっそう肩をおとすように部屋を出ていった。そのとき、廊下から聞こえてきたのは、組合員の「バンザイ」の声と怒号に似たざわめきであった。

将校の軍服そのままで廊下を走ってゆく中川中執、そして第一スタジオの中央の机を前にして、藤島克己闘争副委員長が複雑な顔をして座り込んでいるのが実に対照的であった。

私は意を決し藤島闘争副委員長をたずねた。怪訝(けげん)な顔で、阻止しようとする組合員を振り払うようにして私は、藤島さんと西島氏に向かい「やはり予定通りストは決行しますか」と質間した。

「やむを得ませんよ」と藤島さんは憮然たる表情で答える。

「しかし藤島さん、道新も読売も、神戸新聞もストは中止していますよ」

というと、藤島さんは一瞬顔を硬ばらせながらポツリひと言

「私は、組織の決定に従うまでです」

と答えるだけだった。

それはあたかも西郷隆盛がかつがれて西南戦争を決意したときの心境だったのではあるまいか。

「新聞記者がよけいなことを言うな」

そばで青年行動隊長がわめいた。これも斬り込み隊長の別府新助を彷彿(ほうふつ)させるものがあった。

(第13回に続く)

阿川 秀雄

阿川 秀雄

1917年(大正6年)~2005年(平成17年)

昭和11年早稲田大学中退、同年3月、時事新報社入社、以後、中国新聞社、毎日新聞社等を経て通信文化新報編集局次長。昭和25年5月電波タイムス社創立。

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