実録・戦後放送史- 電波取材に生涯を捧げた 記者・阿川秀雄の記録 -


実録・戦後放送史 第14回

「NHK国家管理下に①」

第1部 放送民主化の夜明け(昭和21年)
政府内では、ストを中止させ、放送を常態に戻すためには、当面の措置として「国家の手」による放送の実施以外にない、という意見が大半を占めていた。
しかし、こうした強硬手段を採る場合に必要な法的根拠について再び論議が展開された。
網島電波局長や荘管理課長は、あらためて、関係法規を精査報告したが、当時、放送を管理監督する法律としては、大正四年に施行された「無線電信法」だけであり、この法律を補完するものとして、同法の付則「私設無線電話規則」だけであった。
昭和二十五年「電波法」が制定されるまで日本の放送は、この私設無線電話規則によって、日本放送協会のみが許可されていた。
同規則のなかに「放送無線電話施設許可命令書」の項があり、その九条に「逓信大臣ニ於イテ公益ノタメ本施設ノ全部若シクハ一部ヲ買収セムトスルトキハ、施設者ハコレヲ拒ムコトヲ得ズ」とあった。
これを国家管理の法的根拠にしようということになったのであるが、鈴木恭一逓信次官や網島局長は「そんな無謀な措置は」と逡巡した。
このことは後の「逓信史話」の中で鈴木氏自身によって語られている。
閣議では、一応前記の法令で国家管理を実施しよう、と意見が纏まったが、もう一つ政府としては、態度決定までに確認をとらなければならない問題があった。
GHQ(連合国軍最高司令部)の意向である。
ということはそれまでのGHQは、国家管理に対して煮え切らぬ態度だったからである。ところが、政府の問い合わせに対してCCS(民間通信局)は、実にあっさりと「全面的に賛成」を回答してきた。
かくて、日本の放送史上はじめての「放送の国家管理」が正式に決定し、十月六日午後五時半、内閣書記官長林譲治は次の要旨による談話を発表した。
「現在、民主国家建設に必要な重要案件が議会で審議中であり、刻々と決定される政策等の措置を敏速に国民に周知報道し民主政治の実効を期することは、国としての絶対条件である。したがって日本放送協会があくまで罷業を継続するにおいては、全国民への影響も考慮し放送の国家管理を実施するなど公安上必要なる措置をとらざるを得ない」
逓信省も併せてスト中止命令を発した。
かくして放送ストは、運命の日を迎え、政府は十月六日「放送の国家管理」を断行した。
逓信省の鈴木恭一事務次官、網島毅電波局長は、荘宏管理課長、谷村功技術課長、山根文書課長補佐らを従え午前八時半、組合員の怒号のなかを放送会館に乗りこむと「只今から国家管理に入る。放送協会はこれに協力せよ」と高野NHK会長に命令書を手交した。
逓信省は国家管理の実施と同時に、すぐさま多数の職員で放送会館や埼玉県川口にある送信所等を掌握し放送準備にかかった。
しかし進駐軍兵士の協力を得なければならなかった。労組側の抵抗が強かったからである。

阿川 秀雄

阿川 秀雄

1917年(大正6年)~2005年(平成17年)

昭和11年早稲田大学中退、同年3月、時事新報社入社、以後、中国新聞社、毎日新聞社等を経て通信文化新報編集局次長。昭和25年5月電波タイムス社創立。

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