実録・戦後放送史- 電波取材に生涯を捧げた 記者・阿川秀雄の記録 -


実録・戦後放送史 第15回

「NHK国家管理下に②」

第1部 放送民主化の夜明け(昭和21年)

このとき放送会館の調整室の接収と機器操作を担当したのは電波局谷村課長を中心にした技官数名であった。
「あのときは参ったね。機械の使い方もよくわからなくてー」と谷村功氏は後日、往時を振り返る。
一方、総指揮をとる網島局長は、荘管理課長、周藤係長、山根文書課長補佐、小川文書係長らを集めて、どのような手段、方法で放送を再開するかに腐心していた。
何をおいても国民生活に必要なニュース、天気予報だけは最優先に流さなければならないからだ。気象台や通信社から送られてくる原稿等のまとめは山根補佐、周藤二三男、小川元美係長らによって作成できるとしても、告知員(アナウンサー)を誰にするか思案に余ったのであった。
当時NHKの演出部長には河西(かさい)三省という人がいた。河西氏は一九三六年のベルリンオリンピック大会のとき、前畑ガンバレの実況放送で、日本中を湧かせた名アナウンサーである。たまたま河西氏は、放送ストのころ「部課長会」の委員長をしていたが、逓信省としては、このような非常事態のときにはこの人を置いては他にいない、と同氏に白羽の矢を立てアナウンスを頼んだ。
しかし河西氏は「立場上のこともあり、また、かえって組合を刺戟することになる」とこの申し出を固辞した。その河西さんが、飯田次男アナウンサーを伴って私の部屋を訪れたのが十月七日の夜九時ごろだった。
そしてこともあろうに私に「いろいろ検討したのですが、あなたに国家管理の放送(アナウンサー)をぜひ引き受けて貰いたい。あなたは声も良い、まして公平な第三者だから」と正に寝耳に水の依頼であった。加えて脇から飯田アナに「逓信省にも了解を取ってありますし、あなたも有名になりますから」とまで言われ私はムッとした。
「冗談じぁありませんよ」
他人に物を頼むのに、なんという言い草か?私は断固としてこの申し込みを断った。するとしばらくして、こんどは荘管理課長がやってきた。荘さんは言葉をあらためて「国家のために」とまで言われた。その時は、瞬時心が崩れかけたが、踏みとどまった。荘さんには申し訳なかったが「記者は公平中立でなければ」とていねいに辞退した。
やむなく逓信省は茨城訛りの強い、文書係長・小川元美さんを「国家管理放送アナ第一号」に指名し、十月八日朝のニュースから放送を開始したのであった。
私はアナウンサーは断ったが、逓信省の懇望もあって、八日朝は五時前に起きて、気象台から送られてくる「気象通報」(当時はそう呼んでいた)や、共同通信社からのニュース原稿を口語調の原稿にして荘課長に渡した。国家管理放送に対するせめてものお手伝いといおうか情報を待ちこがれている多くの国民に、少しでも早くラジオを聞かせてあげたい、という情熱がそうさせたのである。また、アナウンサーの依頼を断ったことへの、ささやかな詫びでもあった。
(第16回に続く)

阿川 秀雄

阿川 秀雄

1917年(大正6年)~2005年(平成17年)

昭和11年早稲田大学中退、同年3月、時事新報社入社、以後、中国新聞社、毎日新聞社等を経て通信文化新報編集局次長。昭和25年5月電波タイムス社創立。

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