実録・戦後放送史- 電波取材に生涯を捧げた 記者・阿川秀雄の記録 -


実録・戦後放送史 第16回

「NHK国家管理下に③」

放送民主化の夜明け(昭和21年)

十月八日午前七時。世紀のというべき国家管理により放送が開始された。

ただ最初の放送は、放送会館スタジオではなく、川口送信所で行われたので、私はその光景をみることはできなかったが、後日、一松逓相に随行した山根重次氏(当時文書課長補佐・放送監督官)の話によると、一松大臣はフロックコートを着用し

「諸君、政府は…とやり出してね。あのときの原稿はボクが書いたんですが、それをろくろく読まないで、まるで演説か訓示でもするようにやり出したのには、こちらがびっくりしましたね」と当時の状況を話しておられた。

しかもこの放送はNHK部課長の協力も得られず、逓信省官吏も二級官以上の者しか参画できなかった(注=全逓労組の反対が激しかったので)。川口放送所には篠原登工務局長、靭(うつぼ)東京逓信局長らが送信機の操作に当たった。

また、放送会館には網島電波局長、渡辺音二郎電務局長らがニュース原稿の編集責任者になっていた。私はその下原稿のまとめを手伝ったのであるが、一松逓相の放送開始宣言に次いで、前記小川アナウンサーの「ニュースを、申し上げます」のアクセントには、思わず吹き出したくなる場面があった。

いずれにしても国家管理の放送は、以後三日間は逓信省職員によって朝七時、九時、正午、午後は三時、五時、七時の五回、それも東京だけで行われた。

この間、NHK労使間の交渉は八日夜まで続けられた。

協会側は「経済要求には応ずるから、まずストを解除し全国放送が再開された段階において労働協約の協議に入りたい」と主張したのに対し、労組側は「あくまで経済要求を容れ、労働協約締結後でなければ、ストは解除しない」と双方の主張は並行線をたどるばかりであった。

そうこうするうちにNHK部内だけでなく、国家管理を担当する逓信省を震憾させるような大事件が発生した。それは川口放送所における阿久沢四郎氏(工務部機材課長)の感電死であった。阿久沢氏は「放送音声の調子がおかしい」と、不眠不休の疲れも忘れて、送信機の点検にむかい、高圧電線に触れてしまったのである。このことによるNHK職員の衝撃は大きかった。「だから言ったでしょう」私は掌をふるわせて藤島闘争副委員長を面罵した。

阿久沢四郎氏の感電死(殉職)は、NHKの部課長会のみならず、国管放送を担当する逓信省にとっても計り知れないショックとなった。とくに技術関係職員の心境はストに対する怒りとなった。闘争委員会も藤島氏らを中心に、スト中止への模索が秘かに進められる一方、「部課長会」は「現状を放置するときは第二、第三の阿久沢事件がいつ発生するかもわからない。況して現在の国家管理による放送は、余りにも見るにしのびない。また、聴取者国民からも支持を得ていない」として、むしろ国家管理の放送に協力しようという声が高まった。

(第17回に続く)

阿川 秀雄

阿川 秀雄

1917年(大正6年)~2005年(平成17年)

昭和11年早稲田大学中退、同年3月、時事新報社入社、以後、中国新聞社、毎日新聞社等を経て通信文化新報編集局次長。昭和25年5月電波タイムス社創立。

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