実録・戦後放送史 第17回
「放送スト終結①」
第1部 放送民主化の夜明け(昭和21年)
その結果十月十日午後七時にいたり、東京の部課長会は、再三にわたる高野会長からの要請を受け入れ、「逓信省嘱託」の資格で放送に協力した。
このときのアナウンサーを努めたのが飯田次男氏である。しかし、部課長会の中から九人の部課長(東京六人、大阪管内三人)が「国管放送に非協力」を表明し、脱退した。これが後にいう「九部課長事件」である。
いずれにしてもNHKの放送は、部課長会の協力(国管放送への参加)によって、十一日以降は、次第に平常に近い状態に戻りつつあったが、労組だけは無謀なストを続けていた。ここで無謀という表現を用いたのは、その当時、新聞単一の指令で、ゼネストに参加していた新聞社は、東京の「民放」一社に過ぎなかったからである。
その経過を振り返えると、たとえば朝日、毎日新聞、共同通信、日経、東京新聞などの在京新聞通信社は十月四日までにスト不参加、または態度を保留し、地方紙の中では新岩手、高知新聞、夕刊岡山ら十数社がゼネストに参加したが、これらも次第に戦列から離れていった。一枚岩が崩れたのである。私は、これを「新聞の良識」と評価する。一つは新聞単一とか産別会議の強引なゼネスト指令に対する反発と疑間であるが、もっとも重要な点は読者への責任とジャーナリスト精神の発露であった。新聞の発行が停止されてしまえば記者の存在は無用となる。
さらに、もし競争相手の他社が発行すれば、自社の存立にもかかわる。いわばこうした屈辱の排除と企業防衛的な考えがスト中止に動いたものであった。しかもこのゼネストが政治目的であることに加え、占領軍(GHQ)のご気嫌を損じれば、いつ廃刊の憂き目をみないとも限らないからであった。その点、当時のNHKは独占企業であり、お坊ちゃん育ちといわれた職員には「生存のための危機感」に欠けていたのではなかろうか。しかし、組合員のなかから、次第に「放送人としての良識と自覚」が、よみがえってきた。闘争委員会の改組と縮小についで不毛なストへの反省が目立ち、全国各地の放送局が放送再開に踏み切った。内部崩壊である。
これを知った放送委員会が(政治的判断)から腰をあげ仲介に乗り出し、十月二十四日夜にいたり、遂に二旬におよんだ放送ストは終焉の日を迎えるのであった。
昭和二十一年十月五日発生いらい、正味二十日間にわたって続けられた放送ストは、同二十四日午後十時二十分、放送委員会(浜田成徳委員長)立ち会いのもとに「経済要求は認め、労働協約は後日協議のうえ締結する」の線で妥結、組合側(放送支部)は「十月二十五日午前零時を期して就業すべし」とのスト中止指令を出した。(第18回に続く)
阿川 秀雄
阿川 秀雄
1917年(大正6年)~2005年(平成17年)
昭和11年早稲田大学中退、同年3月、時事新報社入社、以後、中国新聞社、毎日新聞社等を経て通信文化新報編集局次長。昭和25年5月電波タイムス社創立。
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