実録・戦後放送史- 電波取材に生涯を捧げた 記者・阿川秀雄の記録 -


実録・戦後放送史 第18回

「放送スト終結②」

第1部 放送民主化の夜明け(昭和21年)

さてこのストは、どちらが勝ったかなどと論ずる必要はない。以下に総括することによって明らかであるからだ。
まずストの「動機」そのものが他動的、即ち新聞単一労組の指令であったこと。経済闘争は一種の名目であって、本命は「読売、北海道新聞争議団への支援」が目的であったことである。
それが証拠には、産別会議事務局次長の細谷松太、いみじくも言った「労働問題は、もはや単なる経済問題ではない。明らかに政治闘争であり、産別会議はゼネスト決行のための闘争機関であって、人民政府樹立が目標だ」がすべてを物語っている。
こうした煽動に乗った「放送支部」にも、初めから闘争のための闘争が先行し「放送を停めること」が「手段」であったと解される。だから表向きの経済要求に対して、いくら協会側が「それに応ずる」といっても彼らはそれに答えようとしなかった(某理事者談)。
また、協会内には当時赤を自他共にゆるす者が多かった。部課長の中にも前記「九部課長」のように、組織に従わない者もあったし、公然と放送を人民の手にと叫ぶ者もいたことを私自身も知っている。
しかし、同志と信じた新聞社が「単一」の指令に従わなかったことで、まず外堀が埋められ、大本営発表を信じなくなった「地方分会」の脱落が相次ぐなど、内堀まで埋まってしまった闘争本部は完全に孤立したのであった。
この光景は「あたかも大坂落城に似ている」とある評論家は言う。「世間知らずのNHK職員は、まだその時代は軍国調の残滓から抜け切っておらず、号令のおもむくままに動いた嫌いがある。情報機関でありながら外部の情報をよく調べることもなく、職員は、ただ執行部の言うがままに動いていた」ともいう。私もまったく同感である。
後年英国のジャーナリスト、ヘッセル・ティルトルマンも「かくも惨憺(さんたん)たる組合大敗北の原因は、限定された経済目的を追及しようとせず、一獲千金に政治目的を達成せんとしたところにある」と喝破していたし、さらに「ろくに歩けもしない子供が駆け出したから」との批判もある。
いずれにしても、失われた放送時間は四百八十時間。受信料二千二百万円の欠損に加え、貴い人命さえ奪った世紀の放送ストは組合の敗北で幕を閉じたのである。
この事件を契機として「放送の民主化」の暁を迎えることになるのであるが、このことは私の五十年にわたる「電波史」の中で忘れ得ぬ一頁でもある。
(第19回に続く)

阿川 秀雄

阿川 秀雄

1917年(大正6年)~2005年(平成17年)

昭和11年早稲田大学中退、同年3月、時事新報社入社、以後、中国新聞社、毎日新聞社等を経て通信文化新報編集局次長。昭和25年5月電波タイムス社創立。

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