実録・戦後放送史- 電波取材に生涯を捧げた 記者・阿川秀雄の記録 -


実録・戦後放送史 第19回

「放送法制定に向けた動き①」

放送民主化の夜明け(昭和21年)

昭和二十一年十月五日から二十日間にわたって行われた「放送スト」は、全国民から悪評を被るなかで終息した。

それにしても放送のない生活が、いかに不毛な毎日であったかを、私もしみじみと味わった一人であるが、国民大衆にとって放送が、かけがえのない生活情報源であり文化財であるかを如実に証明した事件であった。

 

この放送ストが収束されて間もなくの十月すえ、連合軍総司令部CCS(民間通信局)法律顧問のC・A・ファイスナー氏が突然逓信省を訪れ、網島電波局長らに対し、「近く新憲法が(十一月三日)公布されることになるが、逓信省関係の法規を、全面的に改正するよう」との申し入れを行った。

それによると

一、通信行政と法制を新憲法に即応させること。

二、通信(及び放送)を完全に民主化し、これによりこれまでの軍の統制や影響の痕跡を永久に排除する事。

三、実情に即さない現在の(時代遅れの)規定を、新時代にふさわしいものに改める事。

というものであった。

このときはロ頭によるものであったが、ファイスナー氏はその中で「特に放送関係の法律をよく検討整備すべし」と強い要求を行った。これはGHQの命令に等しかった。

日本を占領し、帝国主義や統制主義を根絶し(彼らのいう)欧米式民主国家の建設を進めているGHQとしては、このたびの放送ストの収束等にあたって、現行法(無線電信法)が、いかに時代遅れのものであったか、放送の管理監督、あるいは放送の自律性などについても不備の多いことを指摘した。

たしかに、当時の無線電信法は大正四年に制定されたものであって、放送は「私設無線電話」として扱われ、放送事業の設立許可、監督等のすべては逓信大臣の裁量にまかされていた。

しかし、細かい運営面になると弾力的な規定は皆無に等しく、たとえば当時の日本放送協会は、その運営に当たっては、財務から番組、そして人事にいたるまで、すべて逓信省の下部機構のような扱いであった。

だから放送ストの際にも「放送の国家管理」が、さしたる抵抗もなく行われたわけである。

ファイスナー氏が逓信省に申し入れ(要求)を行ったとき、網島局長らと同席した同局管理課長・荘宏氏は「ファイスナーは、放送という重要なものが、法律の上には何ら表面に出ず、もっぱら省令による規定、定款、命令書によって運営されている現状の欠陥を衝かれ、無線電信法の不備と非時代性を論難した。

また他の通信関係法規についても言及されたが、これはお添えもののようでしたね」と語っている。

この日を期して逓信省は放送関係法律の全面的改正に踏み切った。

私はこれを「放送民主化の夜明け」と呼んでいる。

(第20回に続く)

阿川 秀雄

阿川 秀雄

1917年(大正6年)~2005年(平成17年)

昭和11年早稲田大学中退、同年3月、時事新報社入社、以後、中国新聞社、毎日新聞社等を経て通信文化新報編集局次長。昭和25年5月電波タイムス社創立。

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