実録・戦後放送史- 電波取材に生涯を捧げた 記者・阿川秀雄の記録 -


実録・戦後放送史 第22回

放送法制定に向けた動き④

第1部 放送民主化の夜明け(昭和21年)

ここで「対日理事会」が、昭和二十二年一月十八日「民間放送の不許可」方針について公表した正式文書をあらためて(原文のまま)紹介しておきたい。

一九四七年一月八日「民間放送許可方針」=第二十三回対日理事会=
第二十三回定例対日理事会は昭和二十二年一月八日午前十時、明治生命館でアチソン(米)、ポール(英)、デレビヤンコ(ソ連)、沈(中国代表)の四国代表が出席して開会されました。
前二回の対日理事会から持ちこされた「放送事業の管理及びその所有権」の議題に関し、デレビヤンコ・ソ連代表が「日本の放送事業は、現在の状態に置くことを適当と認める」と言明しました。
日本の放送事業を国家管理とすることは既に前二回の対日理事会で英、中国両代表も賛成しておりまして、この問題は各国間の意見の一致を見たのであります。なお、この会議におけるソ連代表デレビヤンコ中将の言明は次のとおりであります。(筆者注・ソ連代表の言明は前述したので省略する)
以上三回の対日理事会において、米国提案の「日本の放送事業の管理及びその所有権」の議題に対し討議され、「日本の放送事業は国家管理の形式によって行うことを総司令部に勧めることに、対日理事会各国代表の意見が一致いたしました次第であります」。

このようにして昭和二十二年初頭、総司令部(GHQ)は逓信省に対し民間放送の設置は認めない旨通達した。
これを受けて同年二月十四日逓信省は網島電波局長名で「新放送機関の設立について、および第二放送について」の方針を公表した。
それによると「新放送機関の設立については、昭和二十年九月二十五日の閣議了解の次第もあるが、わが国の産業経済等の諸情勢に鑑み、当分の間これを許可しないこととする」と基本方針を明らかにした上で、その理由として
①わが国の現在における生産状態は、甚だ不振であって、放送用真空管の生産もまたその例に漏れず、日本放送協会施設の正常な運用にすら多大の支障をきたしている状況から、新たに放送機関を設立するだけの余地がない。
②日本放送協会と進駐軍が各種の周波数を使用しているので、新放送機関に対して新周波数を割当てることは非常に困難である。かりにこれを割当てたとしても、現在わが国に普及している受信機は分離性が悪く各種の放送が混信し聴取できなくなる。
要するに、電波局長としては、政治的経済的な問題もあるが、むしろ技術的な面から実状をとらえ、周波数が不足していること、当時の「並四式」受信機では分離性能が悪いから複数の放送局を開設することは無理だというのが根拠であった。
また広告収入による放送局は、当時の経済状態から考えて不可能だと指摘している。
(第23回に続く)

阿川 秀雄

阿川 秀雄

1917年(大正6年)~2005年(平成17年)

昭和11年早稲田大学中退、同年3月、時事新報社入社、以後、中国新聞社、毎日新聞社等を経て通信文化新報編集局次長。昭和25年5月電波タイムス社創立。

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