実録・戦後放送史 第24回
放送法制定に向けた動き⑥
第1部 放送民主化の夜明け(昭和22年)
民放不許可と免許申請書の返戻についての電波局の方針を長々と説明してきたが、その苦しい胸の内ともいえるものが、「放送会社設立許可申請の処理方針」の中の次のような表現をみてもわかる。
「特に民衆放送会社については、当省として設立を勧奨した経緯もあるので、最高首脳部において十分懇示する」という一節である。
これは網島局長ら電波局幹部が、もっとも心を砕いた表現だったといえよう。
政府がいったん決定した方針を(たとえ他動的要因、即ちGHQの通達によるものがあったにせよ)白紙に戻すことは断腸の思いであったろうし、しかも自ら進んで新会社設立の申請書を出させておきながら、これを返戻する(突き返す)ということほど気の重いことはない。
だから網島電波局長は「わたしなどからいうよりも、最高首脳部(大臣)から、十分に事情を話してもらい諒解を求めたい」との意を籠めて、「最高首脳部において十分懇示する」という言い回しをしたのである。
真空管や高機能受信機の生産が軌道に乗るまで待ってほしいという意味も行間にほのめかしながら・・。
この方針の中で、「一昨年九月決定の根本方針には変更を加える必要は認めない」としているが、ここでいう根本方針とは、昭和二十年九月二十五日の閣議了解事項「民衆的放送機関設立に関する件」を指すものであって、ちなみに同日の逓信院発表文書には次のように記されている。
第一・方針
発刺タル民衆放送ノ実現ヲ図ル為全波受信機ノ解禁ヲ機ニ現存スル日本放送協会ノ外ニ左記要領ヲ以テ新放送会社ノ設立ヲ許可スルモノトス。
という基本方針が示され、この新放送会社設立についての逓信院の考え(要領)が明記されている。
その要点として、組織は株式会社とし受信機製造会社、新聞社、演劇映画会社、レコード会社、配電会社、百貨店その他放送事業に関連ある者を株主にして、資本金は五百万円以上、放送設備としては短波、中波の二種類。
このうち中波放送は東京、名古屋、大阪、福岡及び札幌にそれぞれ10KW局を置く。
収入は主として広告放送による、というもので、かなり細かい点まで決めている。
このほか、将来は超短波放送(FM)からテレビジョン放送まで行うことを予定していることは注目される。
逓信省としてはまことに辛い立場にあった。
つまり、逓信院時代(注・二十年九月から二十一年六月まで)の、こうした、「閣議了承」という線にそって、民放許可の構えで進んでいた「政策」を、GHQの命令で白紙にもどすには、相当の理由を示さなければ国民は納得しない、と同時に、当局としての面子も保てない。
鈴木次官や網島電波局長らの苦渋に満ちた毎日を、この目でみていた私としては、何か援護射撃の方法はないものかと考えたりしたものだった。
(第25回に続く)
阿川 秀雄
阿川 秀雄
1917年(大正6年)~2005年(平成17年)
昭和11年早稲田大学中退、同年3月、時事新報社入社、以後、中国新聞社、毎日新聞社等を経て通信文化新報編集局次長。昭和25年5月電波タイムス社創立。
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