実録・戦後放送史 第25回
民放設立の動き
第1部 放送民主化の夜明け(昭和22年)
ところで当時の新民放設立申請書には「民衆放送」「新日本放送」「中部日本放送」など五社があったが、これらは逓信院自らが設立を奨めていたものである。
思い出してみると、民衆放送設置方針が決まった昭和二十年九月ごろには、早くもその動きが全国各地で展開された。そして、この計画を全国にさきがけて実行に移したのが大阪商工経済会の寺田甚吉氏や、毎日新聞社(大阪)の高橋信三氏らであった。
高橋氏は後に「新日本放送」を企画し、これを達成し、やがて同社が「毎日放送」と改称されるに及び、同社の社長、会長としてわが国民放の黄金時代を築いた人であるが、私も毎日新聞の同人として付き合いは深かった。
高橋氏は、大先輩の高田元三郎氏が大正十一年、「新聞の大敵は無線電話にあり」と題した論文を胆に銘じていた。
敗戦後、とくに占領下における新聞の運命を懸念すると同時に、新しい時代には、果てしない夢の展開が可能なものは放送事業であると、その設立に強い熱意を燃やし、その実現に奔走した。
その結果、昭和二十一年五月二十一日新日本放送の第一回発起人会を開いて、寺田甚吉氏(寺田合名会社社長・大阪商工経済会副会長)を中心に、関桂三(大阪商工経済会会長)、松下幸之助、里見純吉(大丸社長)ら八名で会社設立計画を練った。
寺田氏は早くから民衆放送の設立計画をもっており、元日本放送協会上海総局長だった岩崎愛二氏や、同じくNHKのOB奥屋熊郎氏らと想を練る一方、近衛文麿氏やGHQなどをしばしば訪れ、その実現に没頭していた。
一方、東京では船田中氏の計画も進んでいた。
さて、民間放送不許可の要因の一つが技術、生産面にあること(網島電波局長談話)は、かねがね網島局長らからも聞いていたので、私も取材報道目標を受信機や真空管部門に的をしぼって、その実態と動向の把握につとめると共に、業界の実情を行政に反映させるなど、業界の奮起をも促がし、受信機量産運動を自ら買って出た。昭和二十二年から二十四年、五年にかけてのことである。
そのころの受信機製造メーカーの大手といえば「東芝」をはじめ、二、三社に過ぎず、中堅として山中電機(商品名はアドミラル)、八欧電機(同ゼネラル)、七欧無線(同ナナオラ)などがあったほか、信井商会、小川忠作商店や広瀬、石丸、山脇電気、福音電気などが、いわば手造り受信機を作っており、真空管製造業者も中小企業が多かった。
とにかく受信機製造に欠くことのできないのは、なんといっても真空管の量産であった。網島電波局長は、GHQなどと折衝して旧海軍が保有していた管球の放出などにつとめたものの、それらは警察などの公安用、あるいは海上無線の用途を僅かに支えるだけで、民需用までには手が回らなかったのである。いまにして思えば昔語りに類するが、そのころの真空管製造には大きな悩みがあった。それは大量の燃料というか、ガスを必要とすることである。
(第26回に続く)
阿川 秀雄
阿川 秀雄
1917年(大正6年)~2005年(平成17年)
昭和11年早稲田大学中退、同年3月、時事新報社入社、以後、中国新聞社、毎日新聞社等を経て通信文化新報編集局次長。昭和25年5月電波タイムス社創立。
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