実録・戦後放送史 第26回
「受信機量産運動①」
第1部 放送民主化の夜明け(昭和22年)
真空管はガラス製品であり、バルブの成形等にガスの消費は膨大である。だが、当時は都市ガスさえ不足していた時代だったから、人びとはガスを求めて奔走した。
そして思いついたのが天然ガスの利用である。しかも、その天然ガスが首都圏にあまり遠くない千葉県の茂原(もばら)町に大量に埋蔵されていることを発見した。
アメリカの西部開拓史に残るゴールドラッシュさながらに、真空管製造業者は、競ってこの地に工場を建設し量産に取り組んだ。
日立製作所も、その例に洩れない。同社は重電機部門中心であったが、戦後通信機分野に着目し、一時はラジオ受信機部門を手掛けたことがあったが、真空管の不足のため事業を中断していた。
しかし時代は無線通信開発期に入っており、そのためには管球(電子管)を度外視するわけにはいかない。それどころか大手会社こそ各種真空管の生産が各方面から喝望されていた。
私(筆者)は当時の日立製作所社長倉田主税氏や通信機部門を担当していた伊藤整一氏らを説いて、将来日立の生きる道は管球を含めた通信機部門にあることを勧奨した。
それが認められたかどうかは別として、日立製作所はやがてRACと技術提携して、茂原に総合管球工場(茂原工場)を建設した。
当時としては巨額な五億四千万円という投資で、話題をよんだものである。
さて、私の本業は報道である。その使命は絶えず現実と未来を直視し、大衆や関係者に時代の推移を正しく認識してもらうための情報、PR活動を行うことにあった。逓信省、通産省、NHK、メーカーの人達と協力し、管球量産運動を展開した。
真空管や受信機の量産、ならびに改善改良運動といっても、所詮はジャーナリストである私としては、逓信省や商工省(現通産省)の担当官やメーカー幹部などと、量産の重要性あるいはその隘路となるものはなにか、業界としては、どう取り組むべきか等々を、座談会あるいは鼎談等のかたちで取材し、これを紙面で大きく扱うことによって、広く国民への啓蒙につとめるほか、直接関係者に会って、この促進にあたることを促がしたりする仕事が主であった。
(第27回に続く)
阿川 秀雄
阿川 秀雄
1917年(大正6年)~2005年(平成17年)
昭和11年早稲田大学中退、同年3月、時事新報社入社、以後、中国新聞社、毎日新聞社等を経て通信文化新報編集局次長。昭和25年5月電波タイムス社創立。
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