実録・戦後放送史- 電波取材に生涯を捧げた 記者・阿川秀雄の記録 -


実録・戦後放送史 第27回

「受信機量産運動②」

第1部 放送民主化の夜明け(昭和22年)

当時、東芝の担当責任者には池田熊雄常務、吉村販売部長、技術陣は下村取締役などがいた。また日本電気(NEC)では小林宏治取締役(現名誉顧問)、大山三良氏らが無線機器部門を担当していたが、これらの人達とは月、三回は会って「これからは電波の時代です。そのためにはー」などと虚勢をはりながら量産促進を訴えたものである。

 

このように関東方の結束を進める一方、関西における有力メーカーにも、この運動に協力してもらうことにした。関西における大手といえば松下電器をおいて外にない。

私は意を決して松下電器の創始者であり社長だった松下幸之助氏を訪ねることにした。

新聞記者の特権を味わったのはこの時である。案ずるより産むが易しのことわざどおり、幸之助氏は実に気軽に面会を承諾された。

「ご承知のように、いま日本は新しい時代を迎え、放送もNHKの全国網の整備が進められるほか、GHQの方針に基づいて、政府は新しい法律を立案中ですが、この法律が施行されますと、民間企業による放送事業が併立することになります。しかし、こんにちのような受信機の性能や生産体制では、とても対応できません。このことは松下さんも新日本放送の設立発起人でもありましたので、よくご存知のことですが、ぜひ御社の総力を上げて高性能受信機の増産に取り組んで下さい」私は一気にそう言って松下さんに要請した。

事前に来意を告げていたこともあって、松下さんは快く「あなたの熱意はよく判りました。お若いのに見上げたものですね。私も大いに頑張りますから、あなたも応援して下さい」打てば響くのたとえ通りの回答だった。その夜、松下さんは「遠路ご苦労さんでした。ついては一献差し上げたい」と、京都は一力茶屋に招待してくれるのだった。その頃の松下さんは、まだ五十過ぎたばかりの「青年社長」の形容そのもので、生気発刺としておられた。十数名の芸妓舞子らの三味線と踊りに和して、「紙園小唄」を唄われるなど歓待の極を尽くして下さった。いまでも、あのときの情景は忘れられない。やがて松下電器は「ナショナル」のブランドでラジオ受信機の量産と販売に乗り出し、放送新時代の招来に大きく貢献されることになったことは、あらためていうまでもない。

(第28回に続く)

阿川 秀雄

阿川 秀雄

1917年(大正6年)~2005年(平成17年)

昭和11年早稲田大学中退、同年3月、時事新報社入社、以後、中国新聞社、毎日新聞社等を経て通信文化新報編集局次長。昭和25年5月電波タイムス社創立。

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