実録・戦後放送史 第28回
「ファイスナー・メモ①」
第1部 放送民主化の夜明け(昭和22年)
さて、日本の電波・放送史に革命的な意義をもたらした「電波三法」制定までの経緯について詳述したい。
昭和二十一年、国民にとって、またNHKや政府にとってもいまわしい放送ストが終わって間もなく、連合軍総司令部(GHQ)は、放送を含む電波法令の見直しと、新しい時代にふさわしい法制の制定を逓信省に要求したことは既に詳述した。
これを受けて逓信省が「臨時法令審議委員会」を設置して、まず放送に関する法律の検討を開始したが、その後、昭和二十四年の秋にいたるまでの道程を振り返えると、逓信省の作業は「日本放送協会法案」から「放送公団法案」などと変遷し、しかも、この成案作業が新聞社に漏洩し、スッパ抜き事件を惹起したりして、何回となく練り返えされている。
この間、東京、大阪、名古屋等の大都市はいうに及ばず、「民間放送」の設立許可を求める運動はますます激しさを加え、GHQも、これらの声に耳を傾けざるを得なくなった。
そこで昭和二十二年十月十六日、CCS(民間通信局)は、鈴木恭一逓信次官、NHK古垣織郎専務理事を招致して、同局次長ラティン大佐から日本の放送政策に関する新たな基本方針を示唆した。
その要旨は、それまでGHQが堅持していた単一の独占放送体制を維持するという方針を百八十度転換するもので、はじめてアメリカ式の商業放送会社の許可などを謳う法律を作れ、というものであった。
しかもこの方針は、かつてのCCSとかCIE(民間情報教育局)GS(民政局)等による個別(バラバラ)な意見ではなく、総司令部で協議された「総意である」ことが強い調子で告げられた。いわゆる最終勧告であった。
ラティン大佐の方針達示に続いてCCSのファイスナー調査課長代理は「この最終的方針にもとづいて今後策定されるべき放送関係法の根本原則は以下による」と十一項目にわたる骨子を伝達した。
これは後日ファイスナー・メモと呼ばれ、今日の放送法制定の上に重要なポイントとなった。
なお、これによって、それまで「対日理事会」が決議した「放送の国家監理方式」は抹消されたばかりでなく「放送の自由」の原則が打ち立てられた意義は大きく、また放送監理行政機構に至るまで(日本としては)それまでの常識を破る画期的なものであった。
(第29回に続く)
阿川 秀雄
阿川 秀雄
1917年(大正6年)~2005年(平成17年)
昭和11年早稲田大学中退、同年3月、時事新報社入社、以後、中国新聞社、毎日新聞社等を経て通信文化新報編集局次長。昭和25年5月電波タイムス社創立。
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