実録・戦後放送史- 電波取材に生涯を捧げた 記者・阿川秀雄の記録 -


実録・戦後放送史 第31回

「ファイスナー・メモ④」

第1部 放送民主化の夜明け(昭和22年)

昭和二十二年十月十六日、逓信省はCCS(民間通信局)から、放送法等作成の示唆(命令)を受けて、ただちに法案の作業に入ったが、私はこの日鈴木次官がCCSから帰省するのを次官室で待ち構えていた。
「次官、CCSからはどんな指示がありましたか」
と、あけすけに質問した。鈴木さんとは連日のようにお会いしているし、「句会」などでも、いつもご一緒しているほか、本郷(今の文京区)にあった鈴木さんのご自宅で、ときどきご馳走になることもあったという親しいお付き合いであったので、無遠慮も許されていた。
「放送について新しい法律をつくれといわれましてね」
「具体的には、どんな示唆があったわけですか?」
「放送協会(NHK)のあり方をはっきりさせろ。それから民営の放送会社設立の道を開いておけ、といわれた。付け加えれば放送を管理する新しい機関を作れということもあったね」
「どんなふうにですか?」
「放送そのものの位置付けと、いままでの官庁機構になかった、まったく別の行政機関を作れといわれてネ。これをどのようにするか、これから検討するわけだが、それがねえ、政府からも国会からも独立したものでなければならんというわけだ」
「それは、どういうことですか?」
「なにものにも干渉を受けない組織を作れといわれた」
「政府からも、国民からも、また何びとからも干渉されない、というと一体どんなサンプルがあるんですか」
「アメリカには、FCC・連邦通信委員会というものがある。これを見做えというわけだよ」
旧い行政機構しか知らない私にはだれにも干渉を受けない行政機関をつくるなどといわれても、にわかに見当がつかなかった上、放送の自由と不偏不党はわかるとしても、何者からも干渉を許さない放送事業というのは、いったいどのような形のものだろうかと疑いさえ持った。
翌日、網島電波局長にお会いすると
「まったく、そのままとは言われなかったが、現在アメリカで採用している制度を日本にも当てはめて考えているようだね」という説明だった。
やがて逓信省(電波局)は法律案作成の作業に入ったが、電波局はその草案作りの担当者に村井修一事務官を任命し、荘宏、松田英一氏らが、これを手伝った。
この三氏は当時電波の三羽がらすといわれる若手エリート官僚で、網島局長は、この三人をこよなく愛し、また頼りにしていた。
(第32回に続く)

阿川 秀雄

阿川 秀雄

1917年(大正6年)~2005年(平成17年)

昭和11年早稲田大学中退、同年3月、時事新報社入社、以後、中国新聞社、毎日新聞社等を経て通信文化新報編集局次長。昭和25年5月電波タイムス社創立。

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