実録・戦後放送史 第35回
「第二次放送法案と電波庁設立」
第1部 放送民主化の夜明け(昭和24年)
さて、逓信省は二十四年三月、いわゆる第二次放送法案をまとめあげた。
前記のニュース放送(記事の扱い等)に対する制限や、放送局免許手続きなどの一部を修正した案をまとめ上げたものだったが、これも陽の目をみるに至らなかった。
当時、私の得た情報によれば、第二次吉田内閣自体が委員会行政機構ともいうべき「放送委員会」の設置に気乗り薄であった。
それは吉田首相そのものが「委員会行政なんてウマクいかんよ」との発言があったことも要因だったという。
そうした中で電波局はGHQの慫慂もあって、CCS(民間通信局)と折衝を繰り返えしていたが、第二次案が頓座した一因に、政府の行政機構の改革の実施が近づいていたからでもある。
昭和二十四年六月一日、逓信省は「郵政省」と「電気通信省」に分割された。これを二省分離というが、これによって電波行政は電気通信省の外局としての「電波庁」に移管され、網島毅電波局長は電波監理長官に就任した。
この組織改正も実は日本政府が考えたものではなく、昭和二十二年二月ごろからCCSと逓信省は、機構改革についての準備を進めていた。
GHQは日本占領と同時に日本の旧体制を全面的に改革することを意図し、まず二十二年には新憲法を制定させたが、この憲法によって国の行政機構は法律によって定めることに改められた(注・それまで日本のすべての官制規定は勅令によって決められていた)。
あらためて説明するまでもないが、二省分離の行われる前の逓信省は、郵便、貯金保険から、電信電話、電波、航空行政にいたるまで幅広く所管していたが、GHQとしては、郵便事業と電波電気通信行政を分離独立させると同時に、特に電波行政については、日本がITU(国際電気通信連合)加盟国であるところから、電波行政のような国際的にも重要な業務を行う行政組織は、強力な独立した機関が必要であるとの考えから、電波管理庁(Radio Regulatory Authority)の設置を日本政府に促していた。
このような背景から法案作成も遅れたといってよかろう。
かくして昭和二十四年六月一日、逓信省は解体され郵政省、電気通信省が発足し、電気通信省の外局として「電波庁」が新設された。
電波庁職員は長年住みなれた狸穴の庁舎から青山の新庁舎(現在青山電話局のある所)に移住した。
(第36回に続く)
阿川 秀雄
阿川 秀雄
1917年(大正6年)~2005年(平成17年)
昭和11年早稲田大学中退、同年3月、時事新報社入社、以後、中国新聞社、毎日新聞社等を経て通信文化新報編集局次長。昭和25年5月電波タイムス社創立。
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