実録・戦後放送史- 電波取材に生涯を捧げた 記者・阿川秀雄の記録 -


実録・戦後放送史 第36回

「第三次放送法案の提出」

第1部 放送民主化の夜明け(昭和24年)

 このころGHQ(連合国軍総司令部)は、電波庁を独立した電波監理行政機構の設置を前提に考えていた(注・当時の荘宏文書課長談)ようで、電波庁の内部組織として設けられた「法規経済部」(部長野村義男氏)を中心に「電波三法」の早期成案をはたらきかけた。
 その結果、電波庁は二十四年六月十七日に、新しい放送法(いわゆる第三次案)の要綱をまとめてCCS(民間通信局)に提出したのであるが、その案では行政委員会の設置は含まれず「電気通信大臣は、同省内章に常置される放送審議会に諮り、その決定を順守しなければならない。放送審議会の委員会は国会の同意を得て内閣総理大臣が任命する」というもので、「合議制行政委員会制度は採用しない」と明言している。
 これは二十二年十月のファイスナー・メモを完全に否定するものであった。その理由というか根拠は、第三次吉田内閣(昭和二十四年二月十六日成立)の方針に基づいたものである。
 すなわち戦後の荒廃(経済不況、社会不安)の中から生まれた吉田内閣としては、思い切った行政機関の統廃合を行って人員整理さえ行わざるを得ない実情にあり、新たに行政委員会を設けて財政支出を増やすようなことは到底容認できないことであった。
 もう一つの理由は、合議制委員会を作るには、その人選がきわめてむずかしいうえに、合議制のためにかえって決定が長びき非能率であること。さらには、当時国家公安委員会とか中央労働委員会などの行政委員会が、GHQの指示で生まれたものの、これらの委員会は内閣の直接統制外にあって、独自の決定などを行うため、政府の意の如くならなかった。
 気の短い吉田首相のいらだちが、そこにあった。このようなことから合議制行政委員会制度を放棄し、NHK首脳の人事権(任命権)等を電気通信大臣が掌握するという原案を作った。
 この案をみたGHQは、顔を逆なでされたように怒りを表わにし、六月十八日CCS局長バック准将は小沢佐重喜電気通信大臣と増田甲子七官房長官を呼びつけ、あらためて放送法案に対する総司令部の基本的見解(方針)を指示した。
 このときは口頭であった(鈴木次官)、といわれるが、その骨子と内容は、
 ▽電波監理委員会を設けること。(委員の数は五人ないし七人とし、全国の各界各層から選び、総理大臣が国会の同意を経て任命する)
 ▽これに伴い放送を含むすべての電波行政を電気通信大臣の独任制から排すること。
 ▽NHKには新たに経営委員会(委員八人で構成)を置くことと同時に、会計検査院の検査を受けることとするなど、それまでとは全く新しい具体的な内容であった。
 (第37回に続く)

阿川 秀雄

阿川 秀雄

1917年(大正6年)~2005年(平成17年)

昭和11年早稲田大学中退、同年3月、時事新報社入社、以後、中国新聞社、毎日新聞社等を経て通信文化新報編集局次長。昭和25年5月電波タイムス社創立。

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