実録・戦後放送史 第37回
「電波三法の提出」
第1部 放送民主化の夜明け(昭和24年)
CCS(民間通信局)のバック准将の指示は、いわゆる占領軍としての最終的命令に等しいものであったが、筆者が想像するところは網島電波監理長官も、長い経験の上に将来を考えて、電波監理全般にわたっての早期法定を思策していたように思える。
それは先にも述べたように、戦後四年にいたるもなお旧態依然たる「無線電信法」が、ほとんど時代の変化に即することなく存続していたことに対する不満であった。そこで先ず「電波の定義」を明らかにし、電波とはいかなるものかまた、その電波を使用(利用)する場合の基本原則(免許方針)を定めることを最前提とし、一般無線と放送を画然と区別する方針を打ち出した(注・これらのことは、日常の如く面接する私に、網島長官みずから洩らしたことでもある)。
CCSバック局長の指示で、電波庁はがぜん色めき立った、というか、電波三法の立案作業は急ピッチで進められることになった。
それまで放送法中心に進められていた作業は「電波法」と「放送法」を明確に区分し、これを監理する機関として「電波監理委員会設置法」の成案作業は夜を日に継いで進められた。当時「青山北町」と呼ばれた電波庁庁舎には、夜の更けるまで電灯が点っており、出前持ちの往復もしきりであった。
このようにして成案された電波三法案は、次のような内容であった。それによると「電波監理委員会」に関する要点は
一、総理府の外局として電波監理委員会を設ける。
二、委員長には国務大臣を当てるほか六人の委員を置く。
三、内閣は総理大臣の請求があったときに電波監理委員会に「再議」を命ずることができる。再議にあたって委員会は内閣の意見をじゅうぶんに尊重すること。もし、再議をせず、または再議にあたって内閣の意見を尊重しないときは、総理大臣は委員会の議決の変更権を認める。
大要はこのようなものであった。この案をみると、一応はGHQの指示する合議制行政機構は容認するが、この委員会に対して内閣の指揮権を行使することができるようにし、そのために委員長を国務大臣とする。委員会の議決に不満のあるときは、総理大臣は委員会に再議(再審議)させることができるようにしたもので、この三法案は二十四年十月十二日の閣議で正式に決定のうえ総司令部(GS)に提出された。
(第38回に続く)
阿川 秀雄
阿川 秀雄
1917年(大正6年)~2005年(平成17年)
昭和11年早稲田大学中退、同年3月、時事新報社入社、以後、中国新聞社、毎日新聞社等を経て通信文化新報編集局次長。昭和25年5月電波タイムス社創立。
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