実録・戦後放送史- 電波取材に生涯を捧げた 記者・阿川秀雄の記録 -


実録・戦後放送史 第59回

「公聴会・総括質疑」

第1部 放送民主化の夜明け(昭和25年)
この日の公聴会の最後は長谷川才次さんだった。
 そのころ長谷川さんは時事通信社の社長だった。社長というよりも創設者であるといったほうがよいかも知れない。戦時中の共同通信社から分離独立した同社は、どちらかといえば海外ニュースと海外情報を重点に流し、国内ニュースの配信を行う共同通信社とは一線を画していた。
 それだけに長谷川さんは電波、無線通信関係には非常な熱意を示していた。 
 さて長谷川さんの基本的な意見は「現在の日本のような貧乏国(当時はそういわれていた)に、複数の放送局をつくるのはどうかと思う。
 もし、どうしても複数局を許すというなら、むしろNHKを解体して、平等な立場に立っての放送局を作り、現在の第二放送を一方の放送局に分けてやることだ。
 またNHKが通信社の如き機能を持つことは好ましくない」という主張であった。
 この日の公述人の意見を総括して中村純一議員が質問に立った。
 それは河田進参考人の強調した「NHKに対する監督機構の複雑さが言論の圧迫に結びつく」という主張に対して、重ねて意見を求めたものである。
 河田氏はこれに対して「多元的監督は直接的に言論圧迫になるということは、物理的現象としては起こらないかもしれないが、官僚の持つ万能的意識は、いつの日か番組、技術両面において統制の危険なしとしない」と答えた。
 さらに中村議員と河田氏の間で①経営委員会の性格論②第二放送の存廃③受信機修理場所をめぐる考え方などについて質疑が繰り返された。
 河田氏は①経営委員会にすべての権限を持たせるべきだ②第二放送の保有は公共放送の使命だ③受信機の修理場所は、山間へき地に限れば業者を圧迫することにならない―などと主張した。
 また受信機修理の問題については、小川忠作氏が重ねて質問にこたえ「今日、八百万のラジオ聴取者に受信機を手渡したのは我々業者であり、保守修理を行うのもわれわれの責任である。また修理業務はわれわれにとって死活問題であり、NHKが行うことには絶対反対である」と再び業者の立場を繰り返した。
 以上で二月七日から二日間にわたった放送法案を中心とした公聴会は終わった。
 私もこの二日間、他の仕事には目もくれず国会に釘づけとなって、十九名の公述人の意見と委員とのやりとりを一言も聞き洩らすまいと耳を傾け、メモ用紙の山を築いたのを今もって思い出すのである。
 回顧すれば、それはあまりにも記憶に生々しい事件であり、また真撃な公述人の姿や当時の国会議員の顔が走馬灯のように去来してならない。
 思えばわが国で初めての文化法ともいえる放送法案であったから、関係者の気の入れ方も尋常ではなかった。
  (第60回に続く)

阿川 秀雄

阿川 秀雄

1917年(大正6年)~2005年(平成17年)

昭和11年早稲田大学中退、同年3月、時事新報社入社、以後、中国新聞社、毎日新聞社等を経て通信文化新報編集局次長。昭和25年5月電波タイムス社創立。

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