実録・戦後放送史- 電波取材に生涯を捧げた 記者・阿川秀雄の記録 -


実録・戦後放送史 第60回

「電波三法成立」

第1部 放送民主化の夜明け(昭和25年)
 衆議院電気通信委員会の公聴会は、昭和二十五年二月十日、今度は電波法および電波監理委員会設置法案について多くの関係者をよんで意見を聞いた。
 出席した公述人は▽鵜飼信成(東大教授)▽大河内正陽(日本アマチュア無線連盟理事長)▽小松繁(社団法人日本放送協会技術局長)▽篠原登(電気通信学会会長)▽苫米地貢(元NHK)▽安田英一(無線機器工業会技術部長)▽梅田一正(全国水産  電気通信協議会代表)▽黒川邦三(日本船主協会労務部長)▽紺野四郎(時事新報主幹)▽鈴木強(全電通)▽宮入鎮(電波法対策委員会代表)▽吉田稔(東京放送設立準備委員)=順不同、敬称略=の十二人だった。
 これにより、衆議院電気通信委員会における公聴会は参考人の公述を終えた。
 民間放送を計画する者にとっては、このうえない朗報であったし、無線従事者や船舶無線関係者に言わせれば「制限規定」が多過ぎること、検査その他の手数料の法定化に、反対をとなえる者もあった。
 さらに電波監理委員会設置法についていえば、わが国で初めて採用される合議制行政機構ということもあって、委員会の運営についてはもちろん、委員の選出と委員長の内閣総理大臣の任命をめぐっての是非論などが熱っぽく論じられた。
 いずれにしても衆参両院の電気通信委員会の審議は二月から四月いっぱいにわたって行われ、事実上の審議が終了したのは四月八日のことである。
 昭和二十五年四月八日、この日は土曜日であったが、午後一時から歴史的な電波三報=電波法、放送法及び電波監理委員会設置法の三案が第七回国会本会議において討議のうえ採決された。
 まず、辻寛一電気通信委員長が、三法案の審議経過ならびに委員会の結果について報告を行ったあと討論に入り、日本社会党を代表して受田新吉氏が放送法案に反対。
 橋本登美三郎氏は自由党(当時の党名)を代表して三法案に賛成。
 共産党の江崎一治氏は三案ともに反対。
 また、川崎秀二氏が与党の立場から賛成の討論を行った。
 これに対して議長(岩本信行副議長)が三法案を一括して賛否を問うたところ、起立多数により委員長の報告どおり可決した。
 三案は一部が参議院で修正されたため衆議院に差し戻しとなり両院で協議の結果、参議院の意見を入れて修正案をふくむ採決という場面もあった。
 具体的にいうと、衆議院では四月八日いったん可決され参議院に送られたが、同院では四月十日の委員会で電波、放送法の各一部を修正のうえ四月十日の本会議で可決、衆議院へ送付、これを受けて衆議院は四月二十六日修正を含む可決という順序をふんでいる。
 また、電波監理委員会の委員長と委員の任命とNHK経営委員会の委員となるべき者の任命は、衆議院では五月一日、参議院は二日にこれに同意する可決を行って、三年間に及ぶ、さしもの論議をよんだ電波法、放送法並びに電波監理委員会設置法は、めでたく成立し、これによって日本の電波利用は民主的行政機構のもとに「国民のもの」として門戸が開放されることになったのである。
   

電波民主化を祝うパレードが都大路に華々しく行われた

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 (第61回に続く)

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成澤誠
放送技術を中心に、ICTなども担当。以前は半導体系記者。なんちゃってキャンプが趣味で、競馬はたしなみ程度。

阿川 秀雄

阿川 秀雄

1917年(大正6年)~2005年(平成17年)

昭和11年早稲田大学中退、同年3月、時事新報社入社、以後、中国新聞社、毎日新聞社等を経て通信文化新報編集局次長。昭和25年5月電波タイムス社創立。

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