実録・戦後放送史- 電波取材に生涯を捧げた 記者・阿川秀雄の記録 -


実録・戦後放送史 第68回

「電波三法成立までの総括」

第1部 放送民主化の夜明け(昭和25年)
 ここまで、昭和二十五年四月八日の第七回国会(衆議院本会議)における辻寛一電気通信委員長の総括的最終説明の全文を紹介してきたが、いずれにしても電波三法は、この日討論採決され、昭和二十五年四月二十六日成立、同五月二日公布され、六月一日施行となった。
 思えば実に長い道程であった。このことは私の人生にとっても忘れ得ない思い出として今も記憶に残る一大絵巻であった。
 わが国の電波利用民主化の動きをたどってみると、昭和二十年九月、時の逓信院総裁松前重義氏が「発刺たる民衆放送の出現」を期待したのが端緒となり、それがやがては放送の民主化を叫ぶ声として巷にあふれ、翌二十一年十月の「放送スト」は、これに油を注ぐ結果を招きGHQ(占領軍当局)を動かすことになった。
 それからの三年間は(本稿でも紹介したように)電波・放送についての基本法制定の激しい胎動が繰り返えされ、ようやく二十四年秋になって電波三法案が固まり、その半年後ようやく陽の目をみるに至ったわけである。
 以上私は、これまで電波三法の国会成立までに至る過程を延々と、まわりくどいほど詳細に紹介してきたところであるが、その目的とするところは①この法律の精補(目的)を明らかにすること②電波の重要性への再認識を訴えること③この法律が戦後日本の復旧に、いかなる作用をもたらすのか等々を広く国民に周知したいこと、こんにちの電波利用者は言うに及ばず、これからの電波についての知識を学ばれようとする人達に、その根元を知ってもらう「教科書」にもと考え、実に本稿のみで約半年以上にわたり心血を注いできた。これはその生きた歴史である。
 総括すると衆議院では電気通信委員会が十五回、本会議が二回、公聴会二日間。
 参議院では、同委員会が二十一回、本会議二回を開いている。
 なお、電波監理委員会の設置に伴い「電気通信省設置法」を改正するための内閣委員会が衆議院で五回、参議院が三回、本会議が各一回開かれた。
 以上要約すると、この法案の国会提出から成立までの日数は延べ百三十二日となっている。
 このように電波三法案は昭和二十二年二月発議されて以来三年有半にわたって、国民各界各層の注視と、政治的にも幾多の難関を越えて成立したものであって、国民の一人として私も、このような法律の重要性を深く胸に刻んでいる       (第69回に続く)

電波庁は三法成立を祝って運動会を開いた。右から長谷長官、野村法経部長ら

電波庁は三法成立を祝って運動会を開いた。右から長谷長官、野村法経部長ら

阿川 秀雄

阿川 秀雄

1917年(大正6年)~2005年(平成17年)

昭和11年早稲田大学中退、同年3月、時事新報社入社、以後、中国新聞社、毎日新聞社等を経て通信文化新報編集局次長。昭和25年5月電波タイムス社創立。

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