実録・戦後放送史- 電波取材に生涯を捧げた 記者・阿川秀雄の記録 -


実録・戦後放送史 第69回

「電波タイムズ発刊の経緯①」

第1部 放送民主化の夜明け(昭和25年)
 「電波三法」成立までの経緯を著述した。これが一区切りついたのを機会に、新しい電波行政の展開とか新NHKの発足前後の動き、あるいは民間放送の免許をめぐる裏面史などについて稿を進める予定であるが、その前に「電波タイムズ」の創刊にまつわるいきさつを披露して読者各位のご理解を承りたい。
 以下は「電波タイムズ」社創立にいたるまでの回想記である。
 新しい電波時代の到来に対して、これをどのような形で周知すべきか、編集方針もさることながら、その発行形態、販売計画は如何に、と案じていたとき、偶然二つの難題というか私の生涯を左右するような大問題が発生した。
 一つはNHKの古垣会長から「かねて計画していた新聞発行計画が決まった。これをぜひあなたに引き受けて欲しい」という直談判だった。
 もう一つは電波庁長官から「新しい電波時代の到来を前に、これらを周知啓蒙するための専門新聞を考えてみては?」という誘いである。
 古垣さんは「近く施行される『放送法』に基づき、NHKは旧社団法人から公益法人に移行する予定であるが、新しいNHKの性格と目的、事業運営から番組にいたるまで、これを広く国民に周知する週刊の新聞を発行する。それをあなたに引き受けてもらいたい」と、まるで即答を求める態度だった。
 一方の網島長官は「新しい電波行政を公正中立に、しかも〝親身〟になって報道してくれる新聞が欲しい」という。私はまさに進退谷(きわ)まれりの心境であった。
 結局は思案のすえ、古垣さんの申し入れを承引して準備にかかっていたところ、まさに青天の霹靂の如き事態が出来(しゅったい)した。
 私をたずねてNHK栃沢秘書課長が、いきなり「こんどの会長との話は、初めから無かったことにしてもらえないだろうか」という申し出だった。
 その理由として同課長が言うのは「実は内密ですが古垣会長はいま、朝日新聞から人の請け入れを頼まれて処置に窮している。そのへんを理解してもらえんだろうか」
 そこまで言われるとむしろ私のほうが進退きわまった。結局は古垣さんに面会して、この話は白紙還元としたのであるが、このとき古垣さんは、手を合わせんばかりに喜びを表わすと同時に、次のことを約束された。「これからのことはNHKとして何なりと」というのであった。
 それから間もなく私は網島電波監理長官やNHKの小松繁副会長ら幹部と面会すると、「これから私の生涯の仕事として電波関係を対象にした専門新聞を発行したいので、よろしくご指導ご協力を」と決意を述べ、協力を要請した。(そのとき私には切羽詰まった問題があった。それはNHK新聞の発行を依頼されたため集めた七人のスタッフの処遇というか、身の振り方を早急に講じなければならなかったからである)。
        (第70回に続く)

阿川 秀雄

阿川 秀雄

1917年(大正6年)~2005年(平成17年)

昭和11年早稲田大学中退、同年3月、時事新報社入社、以後、中国新聞社、毎日新聞社等を経て通信文化新報編集局次長。昭和25年5月電波タイムス社創立。

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