実録・戦後放送史 第71回
「電波タイムズ発刊の経緯③」
第1部 放送民主化の夜明け(昭和25年)
目指していた販売部数(当初一万部達成)も、こちらの希望どおり決定した幸福感を胸に、私は“一人よがり”になることを避けて、大勢の協力者から「どのような紙面を作るべきか」を率直に相談し、指導を仰ぐことにした。
昭和二十四年十一月初めのことであった。
当日来席されたのは電波庁から網島長官、長谷部長、柴橋国隆関東電波監理局長、周藤二三夫管理課係長、NHK小松常務理事、日本通信工業連合会業務部長の河野周一氏、そして隅野久夫氏らであった。
私は一同に心からなる謝辞と今後の支援を要請するとともに、「電波タイムズは、戦後の日本を復興する目的のもとに、電波の最大限の復旧をはかるため行政や業界と一体感をもって、その発展のためにすべてを捧げたい。とくに電波の有効利用には公正な立場から全力をつくしたい」と信念を吐露した。
これに対して来席された人たちは「このような新聞の発行される日を待望していた。われわれは電波タイムズを〝われわれの新聞〟として全面的に応援する」と賛意を示され、具体的にどのような紙面をつくるのか、経営はどのようにするか等々の質問があった。とくに「周波数の割当や免許等に関連する「教科書」的存在になってほしい」という要望があった。
あとは「創刊の日」もいつにするかという問題になったが、「電波三法」施行の日六月一日(電波監理委員会と新NHK発足と同じ日)にすることが決められた。
このようにして発行準備体制はできあがり、昭和二十五年六月一日付で創刊号を出すべく奔走していた。
ところが思いがけない障害に突き当たってしまった。それというのは当時の日本は、国そのものが被占領下にあり、占領国軍(GHQ)は、すべての出版物等の発行は事前にGHQの許可を要するという建て前をとっていた。そして、これらのことを取扱うセクションがCIE(民間情報教育局)だということがわかった。そこからの許可を得なければダメだという。
ただ私としては、はじめ「CIEなら知己が多い」とタカをくくっていた。当時NHKの放送はすべてこのCIEが指揮監督しており、往時ラジオの人気番組だった「話の泉」とか「二十の扉」などは占領軍の所産であった。そして、それらの指導者としてシュメザースとかハギンスなどという少佐がいたが、私は彼らとはかなり親しい関係であった。というのは、それまで彼らの指導する番組をよく紹介してやったので、彼らからの〝受け〟がよかった。
とくにハギンス少佐は、横浜生まれ(育ちも)で、〝べらんめえ少佐〟といわれた男だったから、早速新聞発行についての目的等を説明してライセンス(許可)を求めた。するとハギンスは「担当が違う」と言って、オーアという少佐を紹介してくれた。
このオーア少佐という男は、法律や免許関係を担当していただけに、文字どおり〝頭の堅い〟いかめしい男で、はじめからよい印象を持てなかった。果たせるかな彼は、私の身分から経歴を細かく聴取したうえに、警察やMPを使って私の日常生活や思想調査までするなど、いっこうにラチがあかぬままに昭和二十四年も暮れ、二十五年の春を迎えてしまった。
こうして業(ごう)をにやしているときに私を救ってくれたのはGHQの通訳官をしていたフランク・馬場という二世の軍属であった。この馬場さんに救われたのである。
「もしも馬場さんがおられなかったなら」といまでも感謝しているが、馬場さんは後に在日アメリカ大使館の広報文化部長などを勤められたから、多くの日本人が戦後の一時期たいへんお世話になったと思うし、ご存知の人も多いと思う。ただ私は、この時ぐらい〝言葉〟というものが、いかに大事であるかと思い知らされたことはなかった。オーア少佐とは充分な理解が得られなかったからだと思う。
馬場さんは、私の気持ちをよく理解され、オーア少佐を納得させてくれた。お陰で昭和二十五年四月初旬になって電波タイムズ発行の許可が下りた。当時の日本はそんな時代であったことを附記しておきたい。
(第72回に続く)

電波タイムズは、創刊当時、東京・文京区湯島に居を構え、毎日塔屋に社旗を掲げた。
阿川 秀雄

阿川 秀雄
1917年(大正6年)~2005年(平成17年)
昭和11年早稲田大学中退、同年3月、時事新報社入社、以後、中国新聞社、毎日新聞社等を経て通信文化新報編集局次長。昭和25年5月電波タイムス社創立。
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