実録・戦後放送史 第72回
「新しいNHKの発足①」
第1部 新NHKと民放の興り(昭和25年)
かくて電波監理委員会と新しく生まれるNHKの発足諸準備が着々進められ、私のメモにも当時の模様がビッシリと記録されている。
新NHKを設立するための「日本放送協会設立委員会」の委員として次の十人が五月九日に電気通信大臣から指名された。
すなわち石川一郎経団連会長を委員長に、委員には靱勉(電気通信省事務次官)網島毅(電波監理長官)長谷慎一(電波庁施設監督部長)山崎匡輔(NHK常務理事)岡部重信(同上)金川義之(同庶務部長)鈴木竹雄(東大法学部教授)仁科芳雄(科学研究所長)矢野一郎(第一生命社長)ら各氏の名がみえる。
また同じ日の日記には「同月九日、新NHKの経営委員会の委員に、次の八名が衆・参両院の同意を得て内閣総理大臣から指名された」とあり、委員長に矢野一郎(第一生命社長、関東甲信越地区代表)また委員として神野金之助(名古屋鉄道社長・中部北陸地区)本野享(京大名誉教授・近畿地区)大原総一郎(倉敷レイヨン社長・中国地区)則内ウラ(愛媛社会事業団理事・四国地区)福田虎亀(若松市長・九州地区)古宇田清平(農学者・東北地区)宇野親美(北大予科教授・北海道)の各氏の名が書きつらねてある。
その経営委員会は五月二十日、新しいNHKの初代会長に古垣鐵郎氏を指名した。また古垣会長は副会長に小松繁氏を、理事に岡野重信、南江治郎、金川義之の各氏、監事に百束極、堀越禎三の各氏を任命して、ここに新NHKの執行部(幹部人事)の骨格ができあがったのだった。
この副会長以下理事者人事は特に注目されていた。小松副会長、岡部、金川理事については、いわゆる〝下馬評どおり〟であったものの、南江(なんえ)治郎氏は、たまたまアメリカに出張中発令されたもので、CIEからの〝差し金(がね)〟ではないかとの風評を呼んだ。
また監事に選ばれた百束(ももつか)熊本中央局長などは「随分ひねった人事だネ」とささやかれたものだが、これで古垣体制は万事滞りなく成立をみた。
経営委員会もきまり、会長らの全執行部が内定し、新協会の定款、収支予算、事業計画等の準備が進められているとき、電気通信大臣(小沢佐重喜氏)は、旧社団法人日本放送協会に対し解散命令を発した。五月十日のことである。
それによると「旧法人の会員すべてに対し、これまでの出資金総額百六十万八千六百円を返還すること」とあった。ちなみに旧法人の会員は全国に約七千人であったから、会員を平等(一人当たり)に割ればその返還された額は(当時としては)微々たる額であった。父からその権利を相続されていた私の長兄なども「あのとき(大正十三年)の三百円に比べたら、この程度の金をもらっても」と今昔を感慨深く語っていたのを思い出す。
(第73回に続く)
阿川 秀雄

阿川 秀雄
1917年(大正6年)~2005年(平成17年)
昭和11年早稲田大学中退、同年3月、時事新報社入社、以後、中国新聞社、毎日新聞社等を経て通信文化新報編集局次長。昭和25年5月電波タイムス社創立。
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