実録・戦後放送史- 電波取材に生涯を捧げた 記者・阿川秀雄の記録 -


実録・戦後放送史 第80回

「放送局開設の根本的基準・聴聞③」

第1部 新NHKと民放の興り(昭和25年)

 さて「放送局の開設の根本的基準」案をめぐって初の聴聞が開かれたのは、昭和25年10月19日から25日までの正味5日間であった。
 法律(電波法、放送法)では、放送そのものの定義とか使命、免許についての基本的方針等を総括的に規定しているが、具体的な免許にあたっての「審査の物差し」はすべてこの根本的基準に拠ることとなっており、しかも我が国としては、こうした基準を決めるのは初めてのことであったから、聴聞に参加したあらゆる人が少なからざる〝とまどい〟を持ったようであった。
 また「聴聞」そのものが未知の世界でもあったから、長い間〝御上(おかみ)〟のいうままに慣らされてきた当時の人々にとっては勝手が違い、どちらかといえば「陳情」的になったりする情景が目についた。
 そうした雰囲気の中で行われた聴聞会場でみた印象や主な質疑などを振り返ってみることにする。

 昭和25年10月19日〝世紀の〟といえる聴聞が行われた東京・原宿の社会事業会館には、午前9時開会というのに8時ごろから傍聴人や利害関係者が集まり、人々の関心の高さをまず知らされた。
 会場正面に西松(主任)柴橋(補佐)両審理官、右手にGHQの法律、放送担当官のファイスナー、ハウギー、リスカー氏ら、左手には富安委員長、網島副委員長ら各電波監理委員、電波監理総局長谷長官ら部課長連、中央にNHK、左右に民間放送申請者ら利害関係者が座り、ほぼ中央の席に報道関係者、それを取り囲むように傍聴人席が設けられて、立錐の余地もない。

 定刻午前9時、西松審理官が開会を宣したあと、聴聞の目的と日程、発言に対する注意などを行ったあと、電波監理当局に対し「事案」の概要、条文の字句の解釈等について説明を求め、次いで利害関係者(公述人)の発言と質問を許した。
 公述人の陳述は事案に対する賛否、修正意見等を含め一人8分間、NHKを筆頭に五十音順に順次発言が行われたが、これに要した時間だけで約一時間半に及んだ。

 さて、陳述人の主張のうちで大半を占めたのは、
①「ブランケット・エリア」の電界強度とエリア内の世帯数について
②放送の種別及び放送番組の編集
③宗教及び思想についての扱いが合憲か違憲かの論戦であった。
 これについては提案者(電監側)、公述人双方から証人が喚問され緊迫した場面の連続だった。
なかでも最大の論議を呼んだのは「ブランケット・エリア」の数値の基準であった。
 放送局開設の根本的基準の聴聞で、大きな争点というか焦点となった「ブランケット・エリア」とは、当時技術の専門家以外に聞き慣れない言葉であった(こんにちでは余り耳にしない)。もう一つ「放送区域」についても論議があったことを付記し、少し解説したい。     
(第81回に続く)

        

阿川 秀雄

阿川 秀雄

1917年(大正6年)~2005年(平成17年)

昭和11年早稲田大学中退、同年3月、時事新報社入社、以後、中国新聞社、毎日新聞社等を経て通信文化新報編集局次長。昭和25年5月電波タイムス社創立。

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