実録・戦後放送史- 電波取材に生涯を捧げた 記者・阿川秀雄の記録 -


実録・戦後放送史 第82回

「東京2局、他1局で決定①」

第1部 新NHKと民放の興り(昭和25年)

 さて、いずれにしても最初の根本的基準は12月2日の電波監理委員会に、西松審理官の意見書が提出され、ほぼ原案通り決定した。
 そしてこの日、富安委員長は「現在わが国の経済事情等を勘案して、さしあたり東京に2局、その他の都市に各1局」という歴史的な免許方針を発表した。
 さらに加えて同委員会は、この根本的基準にもとづく免許申請書の提出を、昭和26年1月10日をもって締め切ると通告した。
 これに対して申請者からは「基準が決まってから僅か1カ月ばかりの期間に申請書を出させ、しかも1月中に予備免許を下ろすということは、全くもって理解に苦しむ無謀なやり方だ」という声が上がったのは 当然だった。

 しかし、これには「ウラ」というか次のような理由があった。連合軍司令部(GHQ)は、かねてから電波監理委員五名を「ガリオア資金」によってアメリカに派遣し、訓練を受けさせるという計画を持っていた。 
 このための通告というか覚書が、CCS(民間通信局)のバック局長から「正式」に富安委員長に手交されたのは12月13日のことである。

この覚書には
 一、ガリオア資金による合衆国の職員交換計画により、日本国電波監理委員の訓練に関する企画が立てられたことを公式に通告する。
 二、この計画によって5人の電波監理委員と1人の日本人新聞記者が3カ月間合衆国に旅行する。その3カ月間に、まずワシントンにおけるゼミナールにおいて研究し、同時に実習して民主的行政形態としての独立監理機関を視察する。

 その後この一行はニューヨークにおけるFCC(連邦通信委員会)の現状及び他の各種の無線放送会社を訪問する。

 一行はまた、西部海岸地方への帰途、コロラド州デンバーにあるロッキー山ラジオ委員会において、ラジオ放送の公共への奉仕性ならびに商業および教育機関の協力によって得られる利益について観察する。

 以上が主文(原文のまま)であって、次に渡航上の細かい注意が述べてあり、さらに「条件」として「日本からの出発は1951年2月10日より遅れてはならない」とあった。
 私は、このCCSからの覚書全文(写し)を某委員から見せてもらったが、これによって民放の新免許がそれまでに行われるだろうと知ったのである。
 しかし「それにしても無謀に近いやり方ではありませんか」。かなり情報に通じていた私ではあったが、一種の義憤を感じた。どう考えても理解に苦しむ点が多かった。
(第83回に続く)

阿川 秀雄

阿川 秀雄

1917年(大正6年)~2005年(平成17年)

昭和11年早稲田大学中退、同年3月、時事新報社入社、以後、中国新聞社、毎日新聞社等を経て通信文化新報編集局次長。昭和25年5月電波タイムス社創立。

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