実録・戦後放送史- 電波取材に生涯を捧げた 記者・阿川秀雄の記録 -


実録・戦後放送史 第83回

「東京2局・他1局で決定②」

第2部 新NHKと民放の興り(昭和25年)
 五人の委員の渡米は合議制による電波行政の一定期間の停止を意味するうえ、とても免許など行える状況でないと思ったからだ。
 なじるように言う私に「これを見給え」と某委員が見せてくれたメモは、バック局長からの次のような添え書きであった。
 「(この長い期間の委員の出張は)ある種の不都合を委員会にもたらすかもしれないが、この不都合は、この企画の重要性ならびに電波の保全および公共の利益に必要な便宜のための利用に関し、委員会(やがて日本人全体)にもたらされる大きな利益によって相殺されるであろう」(原文直訳のまま)。
 この添え書きはCCS局長のバック局長の自筆によるサインがあった。バック局長という人は、表面はいかにも厳しい容貌をしていたが、温情味もあり、実にこまかいところまで気をくばる老(好)紳士であった。 
 電波監理委員会は、このメモの来る前から多少の予備知識というか、その筋から内々の情報を得ていたこともあって、富安委員長も十二月二日「来年一月十日までに申請書を出すよう」と申請者に通告を出したのであるが、これには申請者はもちろん事態を初めて知った電波職員もビックリした。
 まさに〝てんやわんや〟それこそ暮れも正月もない慌ただしい日々を迎えた。とくに申請する側にある人々は、新しく制定されたばかりの「根本的基準」に基づく申請書を作成する作業は大変なものだった。
 もっとも、こうした中で新日本放送(大阪)や中部日本放送(名古屋)は早々と会社の設立も終え準備を整えていた。
 電波監理委員会としては、一カ月以内に民放免許を行って「渡米委員五人」の人選を進めなければならないという緊急事態に直面、そのための委員会が開かれた。
 富安委員長は、その席上「責任上わたしは残ります」と旗色を鮮明にすれば、網島副委員長も「わたしも当然残留します」と、その立場を明らかにした。 
 結局、岡咲恕一、瀬川昌邦、坂本直道、抜山平一、上村伸一の五委員の派遣が正式に決定、政府もこれを閣議で決定した。
 問題の東京はというと、ようやく原安三郎氏の肝入りで、朝、毎、読の新聞三社と電通の四社代表が会合、正式に統合一本化の方針をまとめた。
 それで東京の一局(ラジオ東京)の一本化は成功したものの、残る「異なる東京の一局」の統合は難行をきわめた。
 国民教育放送、セントポール放送協会(のちに日本文化放送協会と改称)、日本キリスト教放送ら四社は、たがいに自説を固執して、当時の日本銀行総裁・一万田尚登氏のあっせんも奏功せず越年してしまったのであった(注・この四社の免許は最後までもつれこみ、四月二十日になって電波監理委員会は異例の優劣判定の表決を行った結果、四対三で日本文化放送協会を免許したのである)。
 このようなあわただしさの中で電波監理委員会は、昭和二十六年の新春を迎え次の免許対策に乗り出すのである。(第84回に続く)

阿川 秀雄

阿川 秀雄

1917年(大正6年)~2005年(平成17年)

昭和11年早稲田大学中退、同年3月、時事新報社入社、以後、中国新聞社、毎日新聞社等を経て通信文化新報編集局次長。昭和25年5月電波タイムス社創立。

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