実録・戦後放送史 第85回
「大阪2局問題発生」
第2部 新NHKと民放の興り(昭和26年)
こうした折り、5人の委員の渡米が国会で問題となった。参議院は2月21日の電気通信委員会に岡崎官房長官の出席を求め、新谷寅三郎議員が「5人の電波監理委員を渡米させることは、国政軽視も甚だしい」と詰め寄る事件が起きた。
新谷議員は「電波行政は7人の電波監理委員の合議によって運営されている。しかるに、この7人の大半(5人の委員)が3カ月も外国に出張するということは、電波行政のストップを意味するものである。いくらGHQの命令だからといって、他に適切な対応策はなかったのか。これは国政軽視であり全く納得できない。しかも現在は重要な民間放送の免許を目前にしており、政府としても、適当な方途を講ずるべきではないか」
このように言って岡崎宣房長官を詰問した。
これに答えて官房長官は「5人の委員の渡米については富安委員長ともよく話し合ったが、委員の渡米は不便な点もあるが、半面利益も大きいということで了承した。現在、委員会は、民間放送の免許という大きな問題をかかえているが、渡米前にこれを処理していけば、あとは従来どおりの仕事で、行政上とくに支障はないと考えている。
また突発事件等が起き、どうしても委員会を開かなければならないようなときには、飛行機で集まって、どこででも会議が開けるような了解もついている、ということで政府も了承した。いずれにしても今回の委員の渡米は、事後の利益が大きいと判断している」と弁明。
かくて5人の電波監理委員の渡米問題は一件落着をみたのであるが、民間放送の初免許をめぐる問題はそう簡単に纏まるものではなかった。
電波監理委員会は当初から全国10数力所の地域に免許を与える目算で、その対象をしぼっていったものの、「東京に2局」と考えたそのうちの1局と、「大阪の1局」をめぐる問題が暗礁に乗り上げてしまったからである。
大阪については、後述するが、毎日新聞の発咄で昭和22、3年ごろから「新日本放送」の設立準備が進められていて、同社(設立中)は25年ごろにはスタジオ、送信所の建設にまで取りかかり、ほぼ「免許疑いなし」の印象を一般にあたえていた。
そこへ〝なぐり込み〟をかけたのが朝日新聞だった。前にも紹介したように、朝日新聞は東京における独自の免許取得を断念して「ラジオ東京」に参加することを決めたが、もともと朝日の本拠地は大阪であり、競争相手の毎日新聞に先行を許すことは「社の名誉」というか浮沈にも関わるというものだった。そんなことから永井大三氏や杉山勝美氏は、バスに乗り遅れまいと、それこそ〝命がけ〟ともいえる攻勢をかけたのであった。
政府要人はもちろんGHQの要路にまで新聞社特有の夜討ち朝がけをし、電波監理委員会にも揺さぶりをかけた。
「マスコミに弱い役人」のたとえ、電波監理委員会の中にも動揺が起き、遂に大阪の申請者の優劣の判定を行って処分をきめようという事態にまで発展していった。
(第86回に続く)
阿川 秀雄

阿川 秀雄
1917年(大正6年)~2005年(平成17年)
昭和11年早稲田大学中退、同年3月、時事新報社入社、以後、中国新聞社、毎日新聞社等を経て通信文化新報編集局次長。昭和25年5月電波タイムス社創立。
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