実録・戦後放送史- 電波取材に生涯を捧げた 記者・阿川秀雄の記録 -


実録・戦後放送史 第86回

「東京地区統合の動き①」

第2部 新NHKと民放の興り(昭和25年)

少し話は戻って、東京地区における民間放送設立に向けての動きを紹介する。
東京地区における民間放送設立準備中の申請社は、ラジオ日本、朝日放送、読売放送及び日本電報通信社(現在の電通)を中心とする「東京放送」など約20社以上が〝ひしめいて〟いた。

しかし、これらの中で一目(いちもく)も二目もおけるのは、以上にあげた4社である。しかもこれらの申請母体は朝、毎、読の有力新聞社そのもので、彼らは互いに力を誇示して活発な免許獲得運動を展開していたが、一様にいえることは、当時としては金(資金)のないことだった。しかし、彼らの強引さには電波監理委員会も〝へきえき〟していた。

私は、これらの新聞社等の言動と、そのウラを詳さに見ながら、その設立事務所に足しげく通って表面上の「取材」をした。その結果だんだんわかってきたのは、いかに強がりを言ってみても、彼らには(一人では)資金がないことだった。

毎日新聞の鹿倉吉次氏を訪ねると、たまたま大企業からの出資を懇願中だという。その財界や企業主に会って話してみると「いずれ、どこかが免許になれば〝お付き合い〟しなければとは思っていますよ。実のところ、今は何処ともハッキリ決めたわけではありません」一様にそういう答えが返えってきた。

もう一つ分かったことは読売の動きだった。読売には肝胆相照らす友人がいたうえ、いろいろな情報が入ってきた。
情報によると読売の正力松太郎社長は、そのころ既にアメリカからの誘いでラジオよりもテレビに興味を持っていたことを知った。

もう一方の朝日新聞は「他社がやるというからには放ってはおけない。だから何が何でも俺が、というわけではない。むしろ…」というのは大阪が一番気になっていたようだ。

そのころ大阪では毎日新聞(高橋信三氏ら)が関西財界と一緒に、早くから「新日本放送」の名乗りを上げており、朝日新聞(大阪)は〝一汽車遅れ〟を取り返えそうと懸命だった。だから、東京の場合は、統合一本化でもできれば、それに参加するといった考えを持っていたようだ。朝日新聞の永井大三氏や杉山勝美氏らと何回となく会って、そうした心証というか言質に近いものまでを得た。

(第87回に続く)

阿川 秀雄

阿川 秀雄

1917年(大正6年)~2005年(平成17年)

昭和11年早稲田大学中退、同年3月、時事新報社入社、以後、中国新聞社、毎日新聞社等を経て通信文化新報編集局次長。昭和25年5月電波タイムス社創立。

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