実録・戦後放送史- 電波取材に生涯を捧げた 記者・阿川秀雄の記録 -


実録・戦後放送史 第87回

「東京地区統合の動き②」

第2部 新NHKと民放の興り(昭和25年)

 もうそのころは、巷(ちまた)のというか、多くの関係者の間では「商業放送の免許は、いつごろか」というのが合言葉のようになっていた。

 電波監理委員会が発足して2ヵ月もしたころには、これが免許を求める申請が数10社にのぼり、申請者代表と名乗る人たちが「委員会」に日参するし、当時の日本はまだ占領行政下にあったため、GHQ(占領軍司令部)詣も頻繁をきわめていた。

 しかし、正式な免許方針も、免許を処理するための諸規則すら出来ていなかった。にもかかわらず東京では「ラジオ日本」ほか数社、名古屋の中部日本放送などが出願、25年8月には約40社の申請者は、早くも国会に対し「民間放送事業に対する課税の公正化」についての陳情さえ行っていた。

 いわば蜂(はち)の巣をつついたような喧噪さであった。だから「キミまで浮き足立つようでは困るね」とさえ、富安委員長や網島副委員長から言われたことがある。「少なくとも、東京の申請者だけでも合併してくれるといいんだがね」と、富安先生は、つい本音を洩らし、「キミなんか、各方面に顔があるのだから、動いてみてはどうかね」と、思いもかけぬことまで言われた。

 「私などの出る幕では…」あわてて否定してみたが、そのあと先生は、チラッと私の顔を見ただけで多くを語ろうとはされなかった。
 富安邸を辞しての帰路、先生の言われたことを噛みしめながら、若さも手伝って〝ひとつ、試みに当たってみようか〟という大それた考えが頭をもたげてきた。

 それには、どのようにしようかと反すうした結果、当時財界の〝大物〟といわれた日本化薬社長の原安三郎氏や経団連の石川一郎氏らを打診してみようと思いついた。

 結論が出れば行動も速やかだった。翌朝早く日本化薬に電話を入れた。応対に出た秘書がクドクドと質問するのを押さえ込むように「放送局の免許に関して、どうしても原さんにお目にかかりたい。これは電波監理委員長からの依頼もありますので」と、ハッタリを効かせてみた。やがて数分待たされたあと、秘書がいうのには「原社長は関西方面に出張するので、3日後だったら」という返事である。

 大願成就の気持ちで面会を約したあと、この3日間を無為にするわけにはいかない。できることなら申請各社の代表と会い、こちらから合併を勧奨し、またその手応えを感じ取ってから原さんにお目にかかろうと思案した。当時の東京では有力な申請者として「ラジオ日本(毎日新聞系)」、電通などを中心とした「東京放送」、そして「朝日放送」「読売放送」などが踵(きびす)を接し、たがいに自己有利を主張し合う有様だった。

(第88回に続く)

阿川 秀雄

阿川 秀雄

1917年(大正6年)~2005年(平成17年)

昭和11年早稲田大学中退、同年3月、時事新報社入社、以後、中国新聞社、毎日新聞社等を経て通信文化新報編集局次長。昭和25年5月電波タイムス社創立。

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