放送100年特別企画「放送ルネサンス」第4回

濱田 純一

東京大学名誉教授

濱田 純一 さん

濱田純一(はまだ・じゅんいち)氏。1950年3月14日生まれ。兵庫県明石市出身。1972年、東京大学法学部卒業。1974年、同大学院法学政治学研究科修士課程修了。法学博士。同大新聞研究所助手、社会情報研究所長、情報学環長などを経て2009年から2015年まで東京大学総長。総務省電波監理審議会会長、放送倫理・番組向上機構(BPO)理事長なども務めた。現在、同大名誉教授。

濱田 純一さん インタビュー

放送は社会の情報環境として維持すべき

2024年9月13日

ご自身と放送との関わりについて

 研究者として長年、放送制度の研究をやってきたが、個人の生活で言えば、放送は幼い頃からごく当たり前に日常生活を取り巻く環境の一部だった。放送は、自然環境と同じように、本や新聞などとともに文化環境の一つで、そうした環境の中で自身が成長したことは、さまざまな刺激も受け幅広い視野が出来て良かったと思うし、次の世代にも同様の環境を確保できればいい。ネットは、プッシュ型のものも増えてきているが、基本は能動的な動作が必要で、放送は受動的だが一定の総合性を備えた情報を届けてくれる。その代わりに、放送は送り手優位であるがゆえの責任が生じる。視聴者が受動的な立場に置かれるメディアには、社会的責任や高い倫理感を持つ仕組みが重要になる。

放送開始から100年が経ち、放送がこれまで果たした役割や位置づけについてどう考えるか

 技術的なことだけから言えば、放送は通信と原理は同じだから、融合していくのは自然とも言える。しかし、放送は技術の違いから必然的に生まれたというより、放送という制度を設けることで人為的に生み出されたというべきだろう。人為的に放送という制度を維持し続けることと、新聞・雑誌、さらにはネットなどさまざまな形のメディアが存在することによって、人々の情報環境の質が保たれる。放送は規制があることによって、一定の公正性や品位などと自由とをぎりぎりのところで共存させている。ただ自由というだけではない内容が生み出される。放送は技術的にも産業的にも、通信との融合を通じて消えてしまうことはありうるが、あえて制度として残す選択をすることが、人びとの情報環境を豊かにするために、この先も大事だと思う。

放送の現状について使命や役割を果たしているか。また問題点や課題は

 とくに気になるのは経営面での課題であり、番組の質にかなり影響が出ていると感じる。以前に比べると、個々の番組の作り方や編成が軽く、粗くなっているという印象を受ける。他方で、放送という枠組みだからこそ、制作され伝えられている質の高いドラマやニュース、ドキュメンタリーなどがあることも間違いない。放送という場で表現する面白さを感じる人たち、放送の責任を意識した人たちが高いプロ意識を持って作っている番組が、放送の価値を高めている。新聞やネット動画でもできないものが、放送にはまだ残っている。
放送は公共性がレゾンデートルだ。分断や多様化がよく語られるようになって、あらためて「公共的」なものとは何かということを考え直さないといけない時代になっている。分断や多様化は、それはそれでいいが、共同社会として成り立つためには、分断されたものの橋渡しや多様化を評価しつつどうやって共生するか、どう理解し合うか、どうつながりあっていくか、そういう仕組みとしての公共性が大事になる。それができる媒介となるのが放送。放送は理屈だけでなく感性にも訴えることができるし、映像で時代を生々しく表現できる力を持っている。放送は、時代の多様化を言葉だけで伝えるのではなく、表現として目に見える、動いている生き生きとした時代の姿、文化の有様を伝えることができる。こうした表現力も、分断や多様性の橋渡しのために必要だ。

理念としての役割はわかるが、現実としてその役割を果たしているか

 少し荒っぽい言い方をすると、かつては、当然これは視聴者が見るべきだ、見てくれるはずだという作り手の意識が強かった気がする。今は逆に、視聴者迎合というか、見てもらえないと困るという臆病さが強まって、制作される番組や番組編成が迷っている感じを受けることもある。みんなが共有できるような面白さ、時間帯を共にして同じものを見る楽しさが従来型の放送の大きな特徴だが、すでに存在している共感の広がりを頼りにして放送を行うのではなく、むしろ共感できない価値の間を橋渡しする面白さを伝えていくのが、これからの放送だろう。そういう「突っ張り」が放送の存在価値であり、それを担保するのが放送の制度ということになる。視聴者が分散化して好きな情報だけに接すればいい、というのも幸せかもしれないが、それだけではいけないのではないかと思い起こさせ、見たくないもの、知りたくないものも、大切であれば知らせることが、民主主義や社会の豊かさにとっては不可欠だ。そして、それを担保する経営や制度も必要となる。

放送局の統配合はあり得るか。また国からの支援も必要か

 経営的に成り立たないから、放送制度の理念である公共性が実現できなくなるのであれば、もう放送はやめた方がいい。放送に携わる経営者も、現場の記者やプロデューサーたちもそうだが、公共性を担っているという責任感と矜持がなくなってしまえば、存在する意味がない。その責任感や矜持を支える経営の基盤を安定させるための手立ては、大胆に取るべきだ。本当に中立的で公正な仕組みができるなら、とくにローカル放送事業に対する国や自治体などからの経営や制作の補助というのはあり得ないことではないだろう。もちろん、その前提として、放送事業者の経営の自律性、取材・制作・編集・報道の自由や独立性の担保方法、市場競争とのバランスなど、十分に議論を行い制度設計しておく必要がある。こうした議論にあたっては、大学への交付金や助成金、あるいはさまざまな文化芸術振興のための補助金の仕組みなども参考とされてよいだろう。

放送はこのまま生き残れるか

 放送事業が経営的に苦しくなっているが、「生き残れるか」という課題設定をする時に、バブルの幻想というか、景気の良い時代の放送のイメージから離れる必要がある。そのような時代の放送としては生き残れない。今のような状態が、ある意味、放送の落ち着いてきた姿という理解の仕方が素直だろう。これからは、どれだけ信頼でき、質が保てる番組制作集団を確保できるかが経営の本質となる。そのための儲けを広告から得るのか、あるいは動画配信サービスのようなところから得るのか、あるいは映画やイベントなど多様な収入源を考えるかなど、もっと自由であっていい。とにかく、番組制作の自立性とプロフェッショナリズムを保って放送の質を担保できる経営基盤を確保するための資源を柔軟に求めるのが、これからの姿だろう。

ネットの普及により放送に置き換わっていくという見方もあるが、今後放送とネットはどういう関係でいくべきか

 金をかけて多くの視聴者を獲得して評判になることもいいが、金がない中で作ったものでも、人々の心の琴線に触れるようなドラマやドキュメンタリーも少なくない。多様性が大切にされる時代は、多様な評価のされ方があってよい時代でもある。質の高さを一つの尺度でとらえるべきではない。制作者の意識にしても、ネットの世界に移って活躍する場合もあれば、放送の地域と結びついて番組づくりをすることにやりがいを感じる人もいる。番組もいろいろで、気楽なお笑いもあり、あるいはちょっと重いドラマもあり、いつもいつも立派な番組が放送される必要はないだろう。ネットと放送があらゆる時間帯で勝負するわけでもない。これからは、あるいは役割分担をし、あるいは競争しながら、それぞれの場でコンテンツ制作のプロフェッショナルとしての役割を誇りをもって果たしていくことが社会的にも求められている。
 放送かネットの配信かはアウトレット、出口の問題で、いつの時代でもコアになるのはコンテンツ作りのための人と体制がどれだけ整っているかだろう。その上で、もし放送というメディアを利用して意義がある、公共的な責任を果たせるという覚悟があるのであれば、それを使えばいい。もっと自由に表現をしたい、もっと儲けたいというなら別の道を探ってもいい。何より大事なのは、優れたコンテンツを制作できる能力がこれからも育っていく環境が、場合によっては公的な支援も受けながら整備されていくことであり、そこで制作されたコンテンツが、放送であれネットであれ、どのようなアウトレットで人々に伝えられるかは、次の問題だ。ただ、いずれにしても、放送という選択肢、制作物の出口は、社会が多様な価値や考え方、生き方に互いに出会える場として、制度的にしっかり維持しておくべきだと思う。

今後の放送のあるべき姿とは

 一般の人たちにとって、日常生活や人生に必要と思われる基本的な情報が信頼性の高い形で伝えられる。あるいはドラマや娯楽も含めて、多くの人々が共通に享受できる文化的な楽しみをしっかり担保できる社会というのが望ましい。さまざまな情報や娯楽など、ネット経由に置き換わっていくものも沢山あるだろう。確かに人には、一方では自分の情報世界に閉じこもりたいといった性向もあるが、他方で、社会的に情報や感覚を共有したいというのも自然な性向で、そのように、人びとが共同生活を送る中で互いを繋ぎとめ、それによってともに楽しみ成長し合う機会を作るのが放送の役割だろう。かつては現実の中ですでにそういう社会的な繋がり方が強かったから、放送の役割が大きく見えたとも言える。今は多様化や断片化、分断の傾向も強くなる中で、そうした放送の役割が見えにくくなっているといった面もあるが、逆に、そのような時代だからこそ、放送が意識的に果たさなければならない役割が大きくなっている。人々の情報選択の嗜好に任せておけばよいというだけでは片付かないテーマが、放送の中にはある。

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kobayashi
主に行政と情報、通信関連の記事を担当しています。B級ホラーマニア。甘い物と辛い物が好き。あと酸っぱい物と塩辛い物も好きです。たまに苦い物も好みます。
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